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オリオンビール株式会社

2010年01月27日

首里城ものがたり その六

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文 亀島 靖[劇作家]  絵 宮城 厚

首里城に君臨した名君 尚真王 ー その三 ー

 尚真王・治世二四年目にあたる一五〇〇年、三五才の壮年期を迎えた尚真は、大里按司を中山軍大将に任じ、さらに王府軍三千名を与えオヤケアカハチ討伐軍として八重山に派遣した。



 征伐の理由は、勝者側の史書である「中山世譜(一七〇一年)」の記録によると、アカハチが三年にわたって貢納を怠ったためとされている。しかし、その実体は、琉球王国の中央集権推進策によって、行政機構と地方統治の強化を図る尚真の強力な戦略であった。
 それまでの先島諸島の首里王府への貢納は、宮古島の仲宗根豊見親を通じて取りまとめられ実施されていた。ところが八重山諸島で急速に勢力を伸ばし始めたオヤケアカハチは、仲宗根豊見親に対する貢納を停止し、あまつさえ宮古島に対する進攻を図ったといわれる。
 造船材料の木材等を資源豊富な西表島から調達し、八重山諸島をその支配下においていた仲宗根豊見親は、先島が戦乱の嵐に巻き込まれることを恐れ、尚真の中央集権国家への参画を図り、首里王府へアカハチの鎮圧を要請したのである。
 なにしろこの時期、八重山諸島は群雄割拠の時代を迎え、仲宗根豊見親の手にあまる軍事情勢であった。最強兵力を擁する大浜のオヤケアカハチをはじめとして、石垣の長田大主の三兄弟、川平の仲間満慶山、平久保の加那按司、西表・祖納の慶来慶田城、波照間島の獅子嘉殿、与那国島のサンアイイソバ、鬼虎等の各勢力が台頭し、それぞれの旗幟もあいまいであった。
 仲宗根豊見親の八重山派兵要請を受けた尚真は、派兵という軍事介入を通じて先島諸島を中央集権国家・琉球建設へ取り込むための絶好の機会ととらえたとも考えられる。
 王府への恭順を鮮明にさせるとともに、王府に対する不満勢力を一掃することで王府百年の運営基盤が作れるのである。
 貢納を拒否する事は、王国の財政基盤を揺るがす事につながる重大な反逆であり、さらなる第二、第三のアカハチの登場を許さないためにも八重山出兵は、尚真の中央集権国家維持への重大な試金石であった。
 派兵の失敗が許されない尚真は、万全の策をたてて臨んだのである。一五〇〇年二月二日、大里按司他の九名の武将、軍船大小四十六隻、兵の数三千名、首里王府軍が動員できる最大規模の軍勢が、国王の命令で先島へ派遣された。
 途中、久米島へ立ち寄った王府軍は、君南風神女を伴い一路南下し、仲宗根豊見親軍、多良間島の土原オゾロ軍と合流、二月十三日石垣島に到着、西表島の古見から長田大主も参加した連合軍は、十九日にアカハチ軍総攻撃の火蓋を切ったのである。
 二十日、二隊に分けた軍船は、登野城と新川から上陸して戦闘が開始され、アカハチ軍も死力を尽くして反撃したが、多勢に無勢のアカハチは底原山で討ち死にし、反乱軍の一族郎党はここに全滅したのである。
 尚真が、君南風を派遣したのも大きな理由があった。先島平定の後には、八重山の農耕、火食の神とされていたイリキヤアマリの信仰を廃して、君南風神女の指導による王府直轄の神女体制を築くためであった。
 尚真は、戦功によって宮古の島頭となった仲宗根豊見親の妻と、古見の首里大屋子(石垣首里府)に就任した長田大主の妻、二人に先島での最初の大阿母(上級神女職)に任命した。アカハチの乱で知略をもって活躍した君南風神女の王府内での重要な役割を知らしめ、奄美諸島から先島にいたるまでの王国の祭政一致のシステムの中に、先島を位置付ける戦略でもあった。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。




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2009年09月23日

首里城ものがたり その五

首里城ものがたり その五

首里城に君臨した名君 尚真王 - その二 -

 尚真は、母親「オギヤカ」の謀略によって十三才の若さで即位した。しかし、その後十年間は、国母オギヤカの専制政治が続くことになり、尚真が実質的に国政をみるようになるのは一四九四年、二〇代後半の時の円覚寺落成以降のこととなる。
 尚真の実績は、首里城欄干遺跡の中で輝かしく記録されているが、大きな謎がある。それは、琉球国初の歴史書「中山世鑑」に、第二尚王朝の中興の祖ともいえる尚真の功績に関してほとんど無視しているといってもよい内容になっている。

 歴史家・伊波普猶氏も、著書「琉球古今記」の中で「五十年間も王位にあって、近代琉球の基盤を築き、彼を謳歌した七種の金石文まで遺っているにもかかわらず琉球史きっての名君、尚真大王のことが琉球の正史ともあろう中山世鑑にわずかに数行しか書いてないのを私は物足りなく感じている。向象賢(羽地朝秀・中山世鑑作者)は、何故、この肝心なところを抜かしたのであろう」と述べている。
 「新講沖縄一千年史」の著者、新屋敷幸繁氏は、その理由として考えられることは「薩摩に遠慮する事があったのか」という疑問点をあげている。中山世鑑を著した羽地朝秀は、常に著作業務の背後に薩摩の琉球統治の考え方を意識していたと考えられる。
 薩摩の琉球統治政策は、大和文化を第一義にして、琉球文化を低く見る視点であった。
明治時代の琉球処分においても歴史は繰り返され、明治政府は皇民化政策の下に方言禁止令等を布いたりした。薩摩藩は、尚真の築いた文化の黄金時代を詳細に記す事で、琉球国民が誇りと自信を持つ事を避けたとも考えられる。
 尚真王の特筆すべき業績は、「祭政一致」の政策による中央集権国家の確立であろう。それ以前は、女性を生き神とする「ウナイ神」信仰と祖霊信仰を核とした自然崇拝が琉球の信仰の基盤となっていた。
 各村々には、神女(のろ)が存在し、各地の祀りを支配していた。また、神女は、その地の支配者である按司の守護神でもあり、実質的に地域の祭政に大きな影響を与えていた。
尚真は、辞令と俸禄を与えることで奄美諸島から与那国島、波照間島にいたるまでの琉球各地の神女を首里王府の組織の一員として取り込み、国家の統制の下に置いた。
 久高島においては、旧来の久高神女の単独支配に対応するべく、王府直任の外間神女を指名し、均衡を保つ方策を用いたりした。さらに、琉球全土の神女を組織統一する、神女の中の神女とも言うべき「聞得大君」の最高神職を設立し、その即位式場を斎場御嶽に指定した。
 尚真は、聞得大君を頂点とし、その下に三平等大アムシラレ、三十三君中央神女、さらに地方神女という神女制度を確立した。尚真は初代聞得大君に、自分の妹、音智殿茂金を任命した。これによって、各地の神女達は地域の祭祀を行うとともに、琉球国の長久繁栄、国王の健康長寿を祈る公事神女として位置付けられる事になる。
 各地の神女は、地域情報等を王府・聞得大君に提供するとともに、時には地方の取税、納付等も課されることになるのである。この制度の浸透によって、尚真は王国の政治と祀りに関するすべての権利を手中にすることとなる。本土では、すでに平安時代の頃には伊勢神宮と大和朝廷は祭政分離を実施しているが、琉球王国においては一八七九年の明治時代の琉球処分による王国の解体にいたるまでに十八代の聞得大君が存在したことになる。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。



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2009年05月05日

首里城ものがたり その四

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首里城に君臨した名君 尚真王
ー その一 ー
 首里城が現在の地に最初の王城として築城されたのは、十四世紀末頃に中山王察度の頃と伝わっている。その後、十五世紀前半に統一王朝を創建した第一尚家二代目国王、尚巴志が現在に伝わる宮殿の形式を整え、十六世紀に第二尚家三代目国王尚真が首里城全体を現在の規模に整備拡張した。
 尚真は、万古に冠たる王であり、二人といない名君と詠われた国王とされている。尚真の時代は、琉球王朝文化の黄金期とさえ伝わり、世界遺産のほとんどが尚真の治世の頃に建造されている。

 園比屋武御嶽石門、首里城跡、玉陵、斎場御嶽等、世界遺産の「琉球王国のグスク及び関連世界遺産群」九件の中から四件、また戦前に指定された旧国宝二三件の中からは、首里城内の歓会門、白銀門、円覚寺(総門、放生橋、含む九件)、弁ヶ嶽石門、崇元寺(総門、含む四件)、園比屋武石門等十八件、計二二件、その他首里城内の龍柱、石欄、久慶門、一日橋、真玉道、真玉橋、と言った琉球王国を代表する二八件余の建造物が、尚真の手によってなされているのである。尚真の治世、国王在位五十年間がいかに文化の爛熟時代であったかが窺える。
 尚真は、一四六五年に誕生した。父は、第二尚王朝の祖である尚円金丸五一才、母は琉球初の女帝とも言うべきオギヤカ二一才であった。父は、伊是名島から沖縄本島に渡り、一介の農民から身を起こして権謀術数を操り、さらに第一尚王朝を滅ぼして天下の主となった人物である。母親もまた、家柄の不明な出身でありながら、国母の座に上り詰めた女性であった。その意味では、尚真は修羅場をくぐり抜けた父親と、母オギヤカの血を受け継いだ、生まれながらの国王とも言える出生である。
 しかし、尚真が十三才の若さで国王の座につけたのも、順風満帆な流れではなかった。
一四七六年、父尚円王が亡くなると、国王の座は尚円の弟で、かつ尚真の叔父に当たる第二尚王朝二代目尚宣威へと引き継がれた。
 尚宣威王の王位継承の式典で、劇的な展開によって三代目国王尚真が幼くして誕生するのである。通常、王位継承の時にのみ現れるとされる「キミテズリの神」の新国王への宣旨は、満座が期待した尚宣威ではなく、側に控えていた少年の尚真に対して下された。尚宣威は、任期わずか六ヶ月で国王の座を追われ傷心のまま、越来に隠遁し半年後に世を去ることとなる。
 わずか十三才で国王となった尚真の後見は、しばらく母・オギヤカが務めることになり、尚真は二十代後半頃からようやく自分の個性が発揮できるようになる。時代としては、円覚寺建立の頃と重なる。
 名実共に琉球国の最高権力者となった尚真は、王府の万世の基盤作りを次々と確立していく事になる。その実績は、一五〇九年、首里城内に建てられた「百浦添欄干の銘」に十項目以上にわたって刻まれている。
・仏教に帰依し寺院を建立。
・民を愛し税の軽減化、上下の和睦を図る。
・離島の反乱を鎮め、交通を盛んにする。
・衣冠の制度の設定。
・刀剣弓矢の類を国有化。
・階級制度の設定。
・国都首里の美化。
・芸術を奨励し、庶民の和楽を図る。
・中国との交流を深め、文物の輸入拡大。
・城観の整備。
・殉死の制廃止。
・中国との三年一貢を一年一貢とする。 
 その他に、中央集権制の確立、按司の首里集居制、聞得大君制の確立等の施策を次々に完成させた。         (続く)

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。


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2009年01月01日

首里城ものがたり その三

首里城争奪の軌跡
 首里城は、いくつかの戦いの場となるたびに琉球の歴史を大きく変えてきた。一三九二年頃、手狭になった浦添から王城を首里に移転した察度の時代は、首里城は要塞の役割を持つ館であったと考えられる。


一四〇五年、首里城が、初めて攻防の場として登場するのは尚巴志の中山攻略の時である。察度王統二代目の武寧は、冊封を受けて首里城に中山王として君臨していたが、尚巴志軍の急襲を受け、中山王の座を明け渡して滅んだのである。この首里城の落城をいとぐちとして、琉球史上初の統一王朝が尚巴志の手によって創設されることになる。第一尚王統五代国王、尚金福王の治世、一四五三年、志魯・布里の乱が首里城内で勃発する。尚金福王の世子・志魯と国王の弟・布里が王座争奪のために興した内乱である。首里城が炎上するという壮絶な戦いが繰り広げられたが、不思議なことに両者共に滅ぶという、勝者なき内乱であった。
その経緯、結果ともにいまだ解明されていない歴史上の謎とも言える戦いであったが、この内乱の蔭で、以後の琉球王国の国策を決定する二人の英傑が登場する。第一尚王統六代目国王尚泰久と、後に第二尚王統の開祖となる尚円金丸である。一四五四年、尚泰久は、越来按司として配されていたが、最後の王位継承者として首里の地に迎えられ国王の座を手に入れることとなる。金丸は、尚泰久の配下として能力を発揮し、二人は琉球王国の権力の中枢を占めることになるのである。
 一四五八年、国王尚泰久と、参謀金丸は「護佐丸、阿麻和利の乱」を平定する。武断派の頭領として全琉に軍事的影響力を及ぼしていた護佐丸、また大和貿易を通じ新興勢力として台頭し首里王府の牙城をおびやかす若き野心家・阿麻和利、この二人を、綿密な戦略、戦術を駆使して取り除いた首里王府は、琉球戦国時代の幕引きを行ったのである。その後、尚泰久と金丸は善隣外交を基盤とした「万国津梁」の国策を打ち出し、琉球を海洋貿易国家に変貌させていくことになる。
 一六〇九年、首里城を舞台にした琉球歴史上未曾有の戦いが発生する。「薩摩藩の琉球制圧」という、琉球王国がいまだかつて経験したことのない国難とも言うべき外圧であった。日本最強の軍団と言われる薩摩軍の攻撃で、わずか三日間で首里城は落城した。時の国王尚寧は、捕虜として駿府、江戸と引き回され、以降、明治初期まで薩摩支配による琉球国の変則な政治体制が生まれたのである。
 関ヶ原の戦いのとき、豊臣方に組みした薩摩藩は、領土安泰は保証されたものの幕府の執拗な薩摩圧迫の策にあい、財政は破綻し、国力は衰えた。その解決策として琉球の中国貿易の利権に着目した薩摩藩は、琉球王国への進攻と、その支配を実践したのである。
 一八七九年三月二十七日、本土の一八七一年施行より遅れること八年後、琉球にも廃藩置県が布かれ、琉球王国は実質上消滅し、沖縄県が誕生した。尚巴志の統一王朝創建より四五〇年後、独立国であった琉球王国は「首里城明け渡し」によって歴史の彼方に押しやられた。日中両国とのバランス外交で生き延びていた琉球国も、明治維新という日本国の大変革の波にのみこまれて、その存在理由を失うことになる。しかも、琉球処分官、松田道之は熊本鎮台四百名、東京より随行の警官百六十名を擁しての武力を背景にした処分を実施した。この実施は琉球国民を驚愕させ、以後の国民意識の変革を求める結果ともなった。首里城が歴史に登場するときは琉球の歴史が大変革するときでもある。琉球国内の内政に関する事件の際には、その衝撃は内部吸収できるが、外部要因でおこる事件の場合には国家体制そのものが琉球の枠を越えた意図で変化させられてしまうのが常である。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。



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2008年10月12日

首里城ものがたり その二

 現在の首里城の原型を作ったのは尚巴志である。尚巴志は、十五世紀初頭、北山国(今帰仁)、中山国(浦添)、南山国(糸満・高嶺)の三国に分裂していた琉球を武力制圧し、初の統一王朝を創建した英傑である。
 彼は、織田信長が天下布武を掲げて、日本国統一の覇業に取り組むより百五十年前に琉球統一を実践したことになる。
 佐敷の地で誕生した尚巴志は、強大な軍事力と財力を背景に、一四〇五年、中山王統制圧、一四一六年、今帰仁城攻略、一四二九年、南山攻略と次々に勝利を手中にしていった。

 尚巴志は、次の理由によって王国の象徴ともいうべき首里城を首里の岡に建造する。
一、 御嶽の存在
 首里の岡には、十名の神々をそれぞれまつる十の御嶽がある。戦国時代、琉球の按司(豪族)達は、地域の守護神であり祖神でもあるニライカナイをまつった御嶽を城内に取り込んで城を建造した。御嶽は、おおむね高地にあり、堅固さを要する城の立地条件を満たすことにもなる。しかし、真の目的は、領民の崇拝する御嶽を場内に確保することによって、御嶽に対する崇拝心と、按司自身に対する畏敬の念を重複させる効果を狙う戦略でもあった。琉球の城は、必ず城内に「イベ」と呼ばれる拝所・御嶽を有する。十名の神々が存在する首里の岡は、水平軸から渡来するニライカナイの神々と、国王即位の時にだけ垂直軸で降臨するキミテズリの神が交差する聖地といわれ、斎場御嶽よりも高位に位置する場所でもある。琉球の「グスク(城)」は、神を守る役割を負っているといえる。
一、 風水の法則
 尚巴志は、参謀役である中国人・懐機の提言によって風水の法則を首里城建造に取り入れた。首里城を背後から護る弁ケ岳(玄武)、城に向かって右に位置する金城川(青龍)、左から北山に向かう道(白虎)、城の前面にある龍潭池(朱雀)の風水の四神を配する場として首里の岡を選定し、尚巴志は懐機に築城を担当させた。懐機は龍潭池の水源を首里城内の名泉、瑞泉に求めた。池の水は人口が増える首里城下の人々の飲料水となり、火災のときの消防水としても使用された。さらに、あふれた池の水は排水溝を伝わり、首里坂下の田園地帯、真和志の農業用水に供与されたのである。龍潭池は、国王の戴冠式に訪れる、中国・国使冊封使をもてなす船遊びの場所として外交の役割を担う場でもあった。また、首里の岡からは、眼下に那覇の海がのぞめるが、風水の最大の条件である「背高面低」という法則も活かされているのである。
一、 国際貿易の拠点
 一三七二年、中山王察度は、中国と初の朝貢貿易を開設し、浦添を海外貿易の拠点としていた。牧港川の河口が交易船・進貢船の母港として使用されていたが、年々、土砂の堆積で川底が埋まり、尚巴志の治世の頃にはその用を果たさなくなっていた。また、一三九二年、察度の要請で中国から渡来し、久米三十六姓とよばれた琉中貿易の職能集団は、那覇久米村に本拠地を構えていた。彼らは、中国への国書の作成、通訳、冊封使の接遇、輸出入品の選定、進貢船の操船、造船、航海技術等を取り仕切り、その存在なくしては琉球の海外交易は成り立たないという役割を有していた。

 尚巴志は懐機を通じて久米三十六姓との関係を密にし、進貢貿易の独占を図っていった。首里城築城とともに、尚巴志は那覇港の浚渫などの整備事業を行い、浦添から那覇に貿易の主体を移していった。さらに、尚巴志は、港湾施設だけではなく、天使館、親見世(首里支庁)、天妃宮、迎恩亭、御物城等の外交施設も充実させ首里城からの貿易の直接支配を強化させていくのである。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。



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2008年07月07日

首里城ものがたり その一

首里城ものがたり その一 首里城は不思議な城である。その歴史は、十二世紀の琉球開闢の王・舜天の居城説、また十四世紀頃の察度王による浦添からの王都移転による築城説、さらには十五世紀の琉球国統一者・尚巴志による創建説等がある。
いずれにしても舜天、察度時代は山塞、もしくは砦のような小規模のもので、現在のような正殿を持つ規模に完成されたのは尚巴志の時代であると考えられる。
 首里の丘の聖域性が城として取り組まれてから第二次大戦で消滅するまで、八百年近い歴史を有する城は全国規模においても貴重な存在である。日本史でいえば、鎌倉時代から続く歴史を持つ城である。

 現在、世界遺産として登録されている首里城跡は、室町幕府の頃、第一尚王家時代に尚巴志によって建築された城構えであり、北京の紫禁城と建築様式が酷似している。そのため、建築当初から「小紫禁城」とも称されていた。
標高百二十〜百三十メートルの丘に築かれた首里城は、周囲一キロメートル、面積四万六千平方メートルの敷地を有する琉球第一の巨城であった。正殿の高さは十六メートル(五階建ての高さ)、基壇が一・九メートル、地上約十八メートルの高さの構造になる。正面からは、二階建ての作りになっているが、内部は木造三階建てになっており、幅二八メートル、奥行き二二メートルで、正殿の屋根には、六万枚の瓦と合計二五七本の柱によって支えられている。これだけの建築は、当時の琉球国の平屋ばかりの建築水準を遙かに越えたものであり、琉球がいかに国力を傾けて建造したかがうかがえる。
 本土の城と比較して、首里城は城内に「首里森」「真玉森」の二つの神域、すなわち御嶽を有していることで、本土の城には見られない大きな特色を有している。

 正殿の一、二階は玉座(王様の座る場所)で、二階は男子禁制のプライベートルームになっている。正面左の北殿は、公務や議事を行う役所で、中国の使者の接待場所としても利用された。正面右の南殿は、薩摩役人の接待の場所として、また、首里城に勤務する役人の控え場所や、行事の会場として使用されていた。
 首里城内には、国王、王妃、王子だけのごく少数の王族と、二百名ほどの官女などが住んでいたといわれている。嫡子である王子も十三才を過ぎると、城下の中城御殿に住まわされ、国王の兄弟などや、家臣にあたる人々は、城下町から手弁当で首里城に通勤していたのである。
 琉球王国は、一人の国王と、江戸幕府の大老に相当する摂政、または国相、老中にあたる三司官、大名に当たる親方、これらの重臣達と、部長クラスの奉行、地頭。課長クラスの地方役人、その他の役人で構成される官僚国家として運営されていたのである。
 第一尚家尚巴志の一族は、七代にわたり六十四年間、第二尚家尚円金丸の一族は、十九代四百十年間、首里城を支配していた。第二尚家は、徳川幕府より百年も永い王朝を築いた。四百七十年余続いた首里王府は、明治時代の廃藩置県をもってその幕を閉じることとなる。
 首里城には、根本的に本土の城作りと違うところがある。それは、米倉がないことである。敵に囲まれて篭城するための兵糧蔵がないとされている。その為か、石垣にしてももともと戦さを目的とした城がまえではなかったともいわれている。何を目的とした城かというと、中国からの使者をもてなしたり、神事、祭祀をするために作られた城ではなかったかと考えられる。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2008年03月03日

中城城ものがたり その三 

中城城ものがたり その三 護佐丸が築城した中城城、座喜味城は共に世界遺産として登録されている。また、勝連城は琉球国でも初期のグスクと伝えられ、世界遺産となっている。

 西端の読谷村残波岬から、東端の勝連半島のカンナ崎までの東西にのびる約二八キロのラインに、数多くのグスクが点在している。
この東西のラインは、琉球王国時代の軍事的緊張感のみなぎる地域と言える。現代で言えば朝鮮半島を北朝鮮と韓国を事実上区分する、いわば軍事境界線にあたる「北緯三八度線」と類似している。
 また、このラインこそが琉球王国時代の、北山国と中山国の境界線で、一触即発の戦火の火種がくすぶっていた地域であった。また、このエリアを二分していた両巨頭が、西の護佐丸であり、東の阿麻和利であった。このエリアに点在しているグスクは、それぞれ両巨頭の勢力下に置かれていたと言える。
 中山国の護佐丸側に属する、座喜味城、山田城、伊波城、屋良城、北谷城、知花城、越来城、中城城、かたや勝連王国の阿麻和利派は、勝連城、安慶名城、具志川城、江洲城、喜屋武城、西城(平安座島)、泊城(宮城島)、伊計城(伊計島)であった。
 この二つの軍閥派の動きに、たえず神経を使っていたのが、首里城に君臨する尚泰久王とその参謀である尚円金丸の王府側であった。軍事力の劣る王府側にとって、護佐丸、阿麻和利の二大勢力は、喉に突き刺さった小骨のような存在であり、尚泰久の父、尚巴志は、護佐丸の娘を尚泰久の妻とし、尚泰久は娘・百度踏揚を阿麻和利の妻として送り込んだ。いわゆる政略結婚であり、閨閥で取り込む政策を実施したのである。
 護佐丸と尚泰久王は、岳父と婿の関係、阿麻和利と尚泰久は、婿と岳父の関係、さらに護佐丸と阿麻和利は、外戚と孫娘の婿の関係という複雑な閨閥関係に置かれていた。
 しかし、王府の思惑も、中城湾に出入りする大和商人との交易の利権争いで、阿麻和利と護佐丸間に生まれた利権争いを止めることは出来なかった。護佐丸、阿麻和利、尚泰久の関係は、それぞれの持つ要因で、三者間の亀裂は時間の経過と共に、埋めることのできないほどの溝となっていった。
 七十代の護佐丸、三十代前半の阿麻和利、四十代半ばの尚泰久、三者の年代の差から生じる焦燥感。また、武将の名門の生まれである護佐丸と、一農民からのしあがり、権謀術数を駆使して領主の座を手に入れた阿麻和利、生まれながらに王子として誕生した尚泰久、それぞれの野望と権力欲は、相手を排除することによってしか達成されないことに気が付いた三人は、陰謀を図ることに情熱を傾注していった。
 このような政治的背景をもとに、発生したのが「護佐丸阿麻和利の乱」であると言える。緊張関係に堪えられず最初に動いたのが阿麻和利と伝えられるが、巧妙に仕掛けられた王府の誘いに乗せられたと見る方が分かりやすい所がある。王府は、錦の御旗である「王府の紋・三つ巴」を阿麻和利に授け、護佐丸を急襲させて滅ぼすと、時を移さず阿麻和利もまた、滅ぼしてしまうことになる。
 現在、座喜味城、中城城、勝連城は、世界遺産として存在している。しかし、その廃墟の背景には、城を築城した人物、城を運営した人物の戦国ドラマが眠っている。王府の正式の歴史書「中山世鑑」には、不思議なことに「護佐丸、阿麻和利の乱」に関する記録は見当たらない。私達は、世界遺産を見るときに、単なる建造物として見るのではなく、それを建築した人物、また、そこで生活をいとなんでいた人物達の生き様、背景を知る必要がある。それが、後世の人々に、世界遺産を理解してもらうことにつながる事になる。

                
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2007年09月29日

中城城ものがたり その二

5_1.jpg 阿麻和利の率いる王府軍によって滅ぼされた護佐丸は 一四五八年には、謀反人の扱いを受けている。また、時の国王尚泰久の正夫人は、護佐丸の娘であった。そのため国王は、護佐丸の血を引いていると言う理由で、長男・安次富金橋、次男・三津葉多武喜の王子達を排斥した。やはり護佐丸の血を引く長女で、阿麻和利の妻だった百度踏揚も首里城から外に出されている。その後、尚泰久は護佐丸とは無縁の第二夫人の息子で三男の尚徳を国王の座に据えている。しかし、わずか十二年後の一四七〇年代には、第二尚家の祖である尚円金丸によって、護佐丸は大忠臣としてよみがえっている。護佐丸の遺児の三男、盛親は第二尚家によって取り立てられ、以後も一族は、王府の重臣としての役職に就いている。護佐丸の遺児が取り立てられた理由としては、権謀術数タイプの尚円金丸が、護佐丸一族による敵討ちや反乱を恐れ、逆に臣下として取り込んだとの見方もあるとされている。護佐丸は、本人亡き後も政治的に大きな影響力を及ぼしていた人物だったことがうかがえる。

 かたや謀反人、一方では大忠臣という、護佐丸に対する極端な評価は、何に起因しているのか?その背景には、いくつかの対立要因が浮かび上がってくる。それは、護佐丸の武将としての実績、類い希な築城家、家柄、南蛮貿易を開設する能力、座喜味から奄美に至るまでの北方諸島に対する大きな影響力、等によるものである。
一、護佐丸 対 尚泰久
 尚泰久にとって護佐丸は、岳父でもあり、又、父・尚巴志とともに戦乱の琉球国を平定し初の統一王朝を創りあげた実力者でもあった。しかし、国の最高権力者である国王、尚泰久にとって、自分の国策を進める上で無視出来ない存在でもあった。また、護佐丸の背後には、元勲としての護佐丸を慕う、地方の按司達の不穏な動静も予測できた。尚泰久は、手法を間違うと、護佐丸を中心とした軍閥の台頭によって、王国の分裂を招きかねない危機感を感じていた。護佐丸の軍事力の前には、いまだ首里王府の文官達の力は脆弱なものであった。尚泰久にとって護佐丸は、圧迫感を与える存在として成長していたといえる。現代でいえば、創立者と共に会社を設立した大番頭に対する、二代目若社長の様な関係だったと推察できる。しかも、妻の父親にもあたるのである。国を運営する指導者、尚泰久、また行政府である首里王府にとって、
煩わしい存在となって、両者の間には亀裂が生じてくる。
一、護佐丸 対 尚円金丸
 また、行政府の最高事務官である尚円金丸と、護佐丸の間にも対立要因があった。農民出身の金丸と、武家の名門とも言える山田按司の血を引く護佐丸との間にも、互いの疎外感が生じ、対立の要因となっていた。
首里王府は、自分の手を汚さずに阿麻和利を使い、突然、護佐丸制圧の官軍を派遣し滅ぼしてしまうのである。
「護佐丸・阿麻和利の乱」は、首里王府によって画策された事件と考えると、疑問点が氷解する。全て阿麻和利の謀略として、筋書きを作ることで、護佐丸は一時的に「王府に背いた逆臣」となる。しかし、謀略の責任を負わされた阿麻和利もまた王府軍によって滅ぼされると、王府は阿麻和利を「王府をたぶらかした逆臣」として位置づけるのである。その結果、時期をおいて護佐丸を「阿麻和利の謀略によって滅ぼされた大忠臣」としてよみがえらすことで、王府は事件の概略を、阿麻和利と護佐丸の私怨として片づけることができたとも考えられる。王府の企画の組踊「二童敵討」の上演によって事件の筋書きが固定化され、大衆に浸透していくのである。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2007年06月06日

中城城ものがたり その一

12_1.jpg 中城城は、琉球王国戦国時代の豪勇・護佐丸が築城した古城とされている。幸い、第二次大戦の戦災をまぬがれ、その外壁などはほとんど原型を保存している名城である。
 護佐丸は、一四二〇年頃、座喜味城(読谷)を築いた後に、中城に移封され、一四四〇年頃に中城を改築したと伝わる。城は、護佐丸以前に誰が築城したかは、まだ解明されていないが、野面積みの時代の石垣跡から判断できるのは、一二〇〇年頃、浦添の英祖王の次男・中城按司の代の築城とも思われる。護佐丸が移住する二百年前に既に築城されていたことになる。この時の城主を先中城按司と呼び、護佐丸の移住によって糸満・真栄里城に移されることになる。
 護佐丸が増改築したのは、新城(ミーグシク)と称されている三の丸と、外壁、独特のアーチ門である。一八五三年、琉球を訪れたペリー提督一行は、中城城を調査し「その石造技術は賞賛すべきものであった。漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思われなかった」と記され、さらにエジプト形式とも評してその素晴らしさを称えている。

 護佐丸の生年は、未詳になっているが、尚巴志の長男、尚忠と同年の生まれと伝わっている。年譜をたどると、一三九一年、山田城(恩納)にて生誕。一四一六年・尚巴志の北山攻略に幕下として参戦するのが、二五才。座喜味城を築いて、居を移すのが三一才。一四二九年、尚巴志軍を率いて南山攻略を成すのが三八才。中城城に移封され、城主となるのが四九才。阿麻和利の謀計に図られ、自刃するのが一四五八年、六八才の時と思われる。
 護佐丸は、参戦においては必ず勝利を手中にし、尚巴志の統一王朝作りに大きな役割を果たしている。建国の元勲としての護佐丸の功績は、琉球国中に異を唱える者は皆無と言える武将であった。それほどの実績を誇る護佐丸が、なぜ、晩年に自刃するほどの運命をたどるのか、琉球史の大きな謎である。武人・護佐丸は、ある意味で政治の波に翻弄されている部分が多い。
 当時、琉球王国の最高権力者であり、すべての武将の人事権を掌握していた尚巴志は、なぜ、護佐丸の領土をめまぐるしく変遷して、移封しているのかも、大きな疑問点である。通説では、阿麻和利の権力が強大化するのを防ぐために中城城に移転させられたと伝えられる。しかし、この説も疑問が生じる。なぜならば、その時期、当の阿麻和利は十二、三才の童でしかない。よしんば、勝連国の茂知月按司の脅威を感じたとしても、尚巴志が勝連按司を滅ぼしてしまえば済む話である。
 護佐丸討伐の王府軍を派遣した尚泰久王は、なぜ、護佐丸謀反の阿麻和利説をうのみにし、妻の父・護佐丸の弁明をとりあげなかったのかも、疑問の一つである。中城と首里はわずか十キロの距離にあり、いつでも、護佐丸を召喚できたはずである。 
 第一尚王家に刃向かう逆臣として滅ぼされた護佐丸は、わずか十年余の後、なぜか、第二尚家の祖、金丸によって大忠臣として歴史の中によみがえってくる。 
 「護佐丸・阿麻和利の乱」も、勝利者の首里王府によって記録されたもので、護佐丸という人物に関しては、多くの謎につつまれている。ともあれ、護佐丸が琉球の戦国時代の鍵を握った英傑であることは、「謀反論」「大忠臣論」であることを問わず、疑いようもない人物であると言える。悲運な晩年を迎えた護佐丸は、琉球史の中では数少ない、庶民の英雄としても、伝説の中で生き続けている。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2007年03月10日

勝連城ものがたり その二

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 阿麻和利逆臣説には、数々の疑問点が浮かび上がってくる。護佐丸・阿麻和利の乱以外には逆臣阿麻和利像は存在しない。むしろ、オモロ(琉球王国時代の民衆が作った叙事詩、古謡)には、阿麻和利が勝連国領民にとって名君であり、彼によって勝連の国が栄えたと褒め称えている歌も残されている。幼い頃、虚弱体質だった阿麻和利は労働には携わらなかったが、頭脳明晰で、蜘蛛の巣を見て魚網を考案し、人々に教示したと伝えられる。屋良村(嘉手納町)出身の阿麻和利は三十代にもならぬ若さながら、知略を用いて勝連城主、暴君・茂知附按司を滅ぼし城主になったと伝わる。モウアシビ(村のレクリエーション)というイベントを作り、各村々に流行らせたのも阿麻和利と伝わる。これらの口承伝説からは、世に言う逆臣阿麻和利像とは全くちがったイメージが浮かび上がる。

 当時、阿麻和利は、堺、博多等の大和商人達と交易を行う程のノウハウと、勝連国を運営する経営手腕の持ち主でもあった。また国力を蓄えつつも、領民とのコミュニケーションを大事にした若き領主像が想像される。
 それ故に尚泰久王は娘を、阿麻和利に嫁がせたとも考えられる。若き英傑の常として阿麻和利は、将来、中央で名をあげたいとの野望を抱いた事は想像できる。だが阿麻和利の目の前には、中城湾をはさんで大和貿易のライバルである中城城の存在は、城主護佐丸とともに目障りであった。ましてや老将・護佐丸が歴戦の勇将として名をなし、近辺の按司の尊敬を一身に集めていたとするなら若き阿麻和利は動きを封じ込められた形であった。
 ニュー・リーダー阿麻和利にとって、長老・護佐丸の存在は、たちはだかる壁のようなものであった。首里王府もまた、平和貿易の国策を進める上で争乱の火種になる武将の派閥作りを恐れていた。それは中山、北山の残党や各按司たちの不穏な動きである。王府はまだ磐石の体制とはいえず、万が一にも不満分子が護佐丸を担ぎ出すとすれば王国は、再び三山分裂の危機を迎えることにもなりかねなかった。護佐丸という影響力の強い武将が存在するだけでも首里王府には不安の材料であった。ここで王府と阿麻和利の政治目的が一致したとすれば、同じ行動が生まれることになる。両者にとって共通の脅威である護佐丸をのぞくことである。若き阿麻和利は王府の憂いを自分の手で取り除くことに、情熱を燃やしたことであろう。行動のキッカケは、首里王府からの提言によるものか、阿麻和利自身からの提案によるものかは定かではない。しかし阿麻和利は王府の旗を手にして官軍として護佐丸を攻略し目的を達成する。
 尚泰久王が告げ口によって建国の元勲、しかも岳父の護佐丸を討つことは考えられず、しかも本人に対する調べも行われていない。護佐丸討伐には明らかに王府の政治目的が存在していた事が考えられる。尚泰久王は、岳父・護佐丸を除くのに、自分の手を汚したくなかった。又、尚泰久の側には重鎮、尚円金丸(後の第二尚氏の祖)がいたが、この天下の大乱に金丸はその動きを全く表に出していない。これは護佐丸、阿麻和利の乱の最大の謎と言える。王府がこの大乱のシナリオを書いたとすれば護佐丸も阿麻和利も政治の権謀術数の犠牲者だったと考えられる。護佐丸亡き後、実力者・阿麻和利も王府にとっては邪魔な存在だった。乱の後、護佐丸を大忠臣として讃えることで、逆に阿麻和利が逆臣とされ、王府の意図が水面下に隠されてしまった。阿麻和利は、政治に翻弄された悲運の風雲児だったともいえる。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2006年11月28日

勝連城ものがたり その一

short.jpg 文化庁は、世界遺産登録されている勝連城を次のように説明している。「有力按司、阿麻和利の居城。阿麻和利は一四五八年に国王の重臣で中城に居城した護佐丸を滅ぼし、さらに王権の奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めたが大敗して滅びた。これにより、首里城を中心とする中山の王権は安定した。史跡に指定されている」。

 勝連城は、沖縄の城の中でも最も古く、十四世紀初めの鎌倉幕府末期の頃から奈良時代にさかのぼるとも言われているが、築城主は定かではない。おそらく、高度な石造文化の技術を持った人々が渡来して築城したことが想像される。
 勝連城の面積は、六千坪ほどで琉球の城の中では中クラスの規模である。十代目城主として阿麻和利が登場するが、それ以前の歴史は、記録が無く伝説口承の世界になっている。勝連半島は、古くから大和文化の影響の強い地域で、京都、堺の商人達が貿易のために、ひんぱんに訪れていた。
 阿麻和利が滅ぼした九代目勝連城主も望月という本土系の名前で、勝連地域は、北山王国、中山王国、南山王国と同様に、勝連王国と呼ぶほどの、有力な豪族が住んでいたと思われる。
 阿麻和利とは、アマウリ、天から降りてくる偉大な人という意味である。
 琉球国の古英雄、また野望の風雲児ともいうべき阿麻和利の墓は、読谷村にある。  
 阿麻和利は、琉球史の中では一代の逆賊というレッテルをはられ、その伝説は数百年にもわたって語り継がれている。
 時は一四五八年、第一尚家、六代国王・尚泰久のころ、首里王府乗っ取りの野心を持った阿麻和利が、計略をもって中城城主、護佐丸をだまし討ちにしたという伝説となっている。
 次のような風説が残されている。阿麻和利は、妻、百度踏揚の父にあたる琉球国王尚泰久に、護佐丸が首里王府に謀反を抱いていると偽りの報告をし、王府軍をひきいて護佐丸に賊将の汚名をきせて滅ぼした。   
 後に、阿麻和利の謀略を知った妻は、恋人鬼大城とともに、父尚泰久の住む首里城へと逃げ帰る。策略が露見したと察した阿麻和利は、首里城へと兵を向けるが敗退し、勝連へと逃げ戻った。
真相を知った尚泰久王は、すぐさま王府軍をさしむけ阿麻和利を滅ぼすことになる。皮肉なことに、阿麻和利は、護佐丸を討つときに自分が指揮をとった首里王府軍によって、討たれてしまうのである。この通説によって、阿麻和利は琉球歴史上まれな悪役にされ、「忠臣蔵」の吉良上野介とならぶ天下の仇役となっている。
 しかし、この伝説にはいくつかの疑問点が残されているのである。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2006年09月28日

座喜味城(ざきみグスク)ものがたり

hero.jpg座喜味城は琉球三山時代の戦国の豪勇、護佐丸が1420年頃、約6年の歳月をかけて築いた城である。信長が1576年に築いた日本初の石垣の城、安土城より150年ほど前の古城となる。世界遺産に登録されているこの城の面積は、約2500坪ほどで、とりわけて大きな城とは言えないが、城造りの名人と言われた護佐丸が築城しただけあって、石垣の堅固さ、曲線の美しさ、また沖縄で最も古いと思われるアーチ型の石門がある。城は、読谷平野の中央に位置し、晴れた日には約30キロ離れた首里城と狼煙による交信が行われたとも言われている。護佐丸は、琉球史の中でも、武勇優れた勇将として名を残している数少ない武人である。北山王国の内乱から逃れて恩納・山田城に拠点を築いた先祖をもつ護佐丸は、武将の血を引く者として生を受けた。農民の出身である阿麻和利や、尚円金丸とは異なる地位、環境で成長することとなる。1416年、20代半ばの頃、山田城主となった護佐丸は、時の中山王尚巴志の旗の下に加わり、北山攻略の一翼を担うこととなる。尚巴志は、護佐丸の才能を認めていたとみえ、中山軍の先鋒をつとめさせる。今帰仁城攻略にめざましい活躍を発揮した護佐丸は、その手柄によって北山監主(代官)に抜擢され、6年もの間、北山の経営を任された。その間にも、座喜味城の築城を手がけている。今帰仁城の修復のなかで、護佐丸は城造りを独学で学んだものと思われる。尚巴志の命で、座喜味城に移封された護佐丸は、北山の陶工達を喜名に移住させ喜名焼きを興し、長浜の港を整備し海外との交易をてがけ東南アジアの織物等を輸入し、読谷山花織りを生み出している。単なる武将ではなく、経済人としての才覚も発揮している。しかし、尚巴志は、護佐丸の才能を警戒したかのように護佐丸の娘を政略結婚の人質として、七番目の王子尚泰久の妻としてもらい受けている。
 護佐丸の娘も後に王妃となるが、その娘の王女・百度踏揚も又、同じ運命をたどるかのように、勝連城主阿麻和利の妻として政略結婚の犠牲となる。武将・護佐丸は、戦国時代の雄として名をはせるが、政治家としては尚巴志の意のままに扱われてしまう面がある。座喜味から中城に移るのも、護佐丸本人の意志ではなく、尚巴志の政略の結果である。尚巴志は、護佐丸が一定の地域で根を下ろし、勢力を張るのを恐れるかのように、今帰仁に6年、座喜味に10数年と、まるで将棋の駒のように護佐丸を移動させている。また、不思議なことに、座喜味には護佐丸に関する伝説、昔話が一つも残らないと言われているが、晩年に謀反人として討たれた護佐丸に関する記録が、王府の手によって除かれたままとも考えられる。
 
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2006年04月07日

今帰仁城 ものがたり


 琉球国は、14世紀初頭から北山国、中山国、南山国という三山分裂時代をむかえた。中国の三国志時代のように琉球国も3つの国に分かれ、互いに戦火をまじえて覇権を争っていた時代がある。北山とは現在の恩納村、金武町以北を含む国頭郡の地域となる。それぞれの拠点は、北山が今帰仁城、中山が浦添城、南山が島尻大里城(糸満高嶺)であった。

 「山」とは、国と国とを隔てる国境線を指し、古く、中国では山は国を意味した。不思議なことに三山時代の領土区分は、恩納村多幸山付近から南北に異なる土壌区分による分離線と同じ線引きとなる。また、三山は、それぞれ中国との冊封(中国への進貢国)体制に組み込まれ、進貢貿易を行っていた。
 今帰仁城を拠点とする北山国は、その発生から滅亡するまでの経緯は、空白になっている。北山王統の系譜にしても、伝説のベールに包まれた世界となっている。「中山世譜」にも、今帰仁按司(なきじんあじ)→不明→不明→怕尼芝(はにじ)→(みん)→攀安知(はんあんち)としか記録されていない。
 初期の今帰仁城が建設されたのは、1000年以上前の時代で、日本では平安時代、源氏と平家が登場した頃である。建国の按司は北山大按司とよばれている。鎮西八郎源為朝が今帰仁でもうけた男子・大舜(舜天の兄)が城主となったとも伝わる。その後の城主として、為朝の孫(舜天の次男)が登場する。
 その後、浦添の王統からの派遣者が代々の城主として継続していく。その後、地元で勢力を蓄えた土豪の本部大主による内紛が起こり一時、浦添系の王権は今帰仁を追われる。しかし、浦添系の遺児・丘春達によって謀反人、本部一派は討ちはたされ、英祖系王統は復権する。この頃から三山時代に入るが、王座を奪回した王統も、その6代目の頃、実力をつけて新たに台頭してきた同じ一族の怕尼芝に滅ぼされてしまう。三山時代に、怕尼芝が創立した北山国は、 、攀安知と三代続き、中国とも進貢貿易を開始するほどの国力をたくわえて、北山王国の栄華を築き上げた。その頃、新興勢力として旗を揚げた佐敷按司・尚巴志が中山の王城首里城を攻略して中山王となり北山に攻略の的を絞った。強大な軍事力を身につけた尚巴志の前に、1416年北山国としての王国は滅ぼされてしまった。民間に伝わる口碑によると、北山の王権をめぐる下克上、また王族の遺児達による奪還など数多くのドラマが秘められている。五回以上の興亡戦が発生し、その度に敗残者や落ち武者達が沖縄全島に離散していった。その中には、山田按司、伊波按司、読谷按司、大湾按司、等が誕生していった。「ムートゥハ、今帰仁」(元は今帰仁)とは、沖縄各地域の人々のルーツと北山の落ち武者達とのつながりが深い事を表している。北山には、沖縄初の銅山の開発、王国直営の古我知焼きの窯の直営等があり、文化が進んでいたことがうかがえる。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2006年01月04日

儀間 真常(ぎま しんじょう)

琉球国の産業開発者

沖縄のヒーロー・ヒロイン

儀間 真常(ぎま しんじょう)







儀間真常は、琉球国のみならず、日本国の人口、食糧等の難問解決にも貢献した、産業開発者として名を残している。
儀間は、一五五七年に誕生し一六四四年、当時としては珍しい、八十八才の高齢で世を去っている。時代背景としては、琉球の国難ともいう薩摩侵攻の時期に、儀間は働き盛りである五十三才を迎えていた。儀間の業績としてあげられるものは、一、唐芋の普及。一、木綿織りの普及。一、黒糖生産の普及。等があげられる。

唐芋は、一六〇五年に野国総官が福州から持ち帰ったもので、総官は、持ち帰った苗を郷里の野国村(嘉手納町)で栽培した。その頃、首里王府内の田地奉行であった儀間真常は、唐芋渡来の報を知ると、野国総官に会いに出かけたのである。
 唐芋は、高温多湿を好み、台風にも強く、まさに琉球国にうってつけの作物だった。儀間は農業の実践家ではなく、むしろ政策官であった。一つの素材に付加価値をつけて、それを産業として成功させる産業開発者としての役割を儀間は持っていた。現代で言えば、プランナーと同じ発想の持ち主だったと思われる。儀間は、農業、食糧政策官として、唐芋の可能性に大きな期待を抱いた。薩摩への上納米により、琉球国の食糧事情は悪化しており、例年襲来する台風という天災の被害は、避けることの出来ない琉球の宿命であった。儀間の胸中には、この苦境を乗り越える切り札として、唐芋の存在が大きく浮かび上がったのである。儀間真常と野国総官の努力により、約二十年間の経過を経て、唐芋は主食として全琉に普及していった。その最大の効果は、人口の増加という現象になって現れていった。哲人宰相、蔡温は、この唐芋の普及によって琉球の人口は、百数十年の間に七~八万人から二十数万人になったと述べている。当時の国力は人口であり、労働力の増加につながっていった。島津藩もこの唐芋に関しては、徴税対象とは考えていなかったので、生産量は急激に伸び、各地には人口増に伴う新部落が、続々と誕生した。また、琉球の唐芋は、さまざまのルートで本土に上陸した。
 一七三三年、天保の大飢饉は、全国で百万人近くの餓死者を出していた。この時に本土で普及していた琉球の唐芋は、日本国の食糧難を解決し、さらに各地の人口を増やしていく結果をもたらした。
一六〇九年、尚寧王とともに薩摩に連行された儀間は、三年間の滞在中、薩摩藩の木綿産業を調査し、木綿種を持ち帰り琉球国内に木綿産業を定着させた。また、一六二三年、儀間は、福州の黒糖製造法を導入し琉球の産業として確立させた。薩摩藩は、黒糖の莫大な利益を独占し、これを軍事力に変え、明治維新のリーダーへと成長していったのである。儀間真常が開発した琉球の産業は、琉球国内のみならず、日本史の激動、動乱期にも、大きな役割を果たしたといえる。

亀島 靖
(Kameshima Yasushi)
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1~3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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2005年08月10日

野国総官(のぐに そうかん)

琉球国の国力、人口を救った 野国総官
野国総官のイラスト  野国総官は、なぜ、生没年不詳になっているのか理由は不明だが、公式の記録には生没年不詳とある。しかし、伝えられる所によると一五六〇年、北谷間切野国村に生まれたとされている。野国とは村の名前であり、総官とは進貢船の総務部長という役職名である、
 野国総官とは人名ではなく、現代で言えば、嘉手納町長という公職名と考えても良い。
 唐名は、徐筆箕という。二十三才の頃、那覇久米村の総理唐栄司(村長)、徐徳宗の下で働いていた野国総官は、その学才を認められ徐筆箕という唐名をもらい、身分を保証される。徐という姓をもらう理由も、徐徳宗と野国村の関係なのか、その理由は定かではない。

 しかし、野国総官は語学の才と、誠実な人格を認められ、久米出身でなければ就くことのできない進貢船総官の職に任じられ、四十五才の時に中国・明国の福州へと渡る。
 時の国王、尚寧王は徐徳宗の推薦によって野国総官を、水夫の総監督にあたる総官職に任命したと伝えられている。
琉球の進貢使が福州、北京を往復する間、進貢船のスタ兊フは福州で半年間待機をするのが常であった。その間、琉球の人々は福州で、歌舞音曲、拳法、医学、等を習い、それを琉球に持ち帰ったのである。
 ある日、野国総官は、中国人の琉球担当官に誘われて農家を訪問した。そこで栽培されている蕃藷(芋)を見て驚いた野国総官は、さらにそれが救荒作物であると説明を受けて天の声を聞いた思いがしたのである。
 当時、琉球は農業に適している土地は限定され、米、麦、粟、豆、稗などを主食としていた。しかし、年数回訪れる台風による被害が大きく、救荒作物を必要としていた。
野国総官は終日、農場で栽培法を学び、持ち帰る方法として鉢植えの法まで考え、琉球国のために、万難を排して蕃藷を持ち帰った。
 一六〇五年、野国総官は、持ち帰った蕃藷を全琉へ広める大志を徐徳宗に話し、了解を得て野国村へと帰還した。苗畑を広げ、頒布用の茎を生産し、野国総官は熱意を持って人々に奨励した。
 しかし、滲み出る白い液の為に、有毒説なども生まれ、人々は当初、その普及に反対する者さえ出る始末であった。その時、蕃藷の噂を聞いて、首里王府の農業、食糧政策官の役職にあった儀間真常が、野国総官を訪れた。
 土地、肥料を選ばず、高温に合う、水田の少ない、台風にも耐える蕃藷の特質を見抜いた野国総官と儀間真常は、琉球国の必需品であることを確認し、全力を傾注して普及させることを誓い合った。
二人の懸命な努力が実を結び、唐芋とよばれた蕃藷は琉球一円に広がった。唐芋は、以後の琉球の飢餓を減少させ、人々の命を救い、国力である琉球の人口を拡大させる作物として定着したのである。以後、唐芋は、日本全国に普及し、救荒作物、また焼酎の原料として現在に至っている。

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2005年01月05日

ベッテルハイム博士と仲地紀仁(なかちきじん)

日本本土より早く牛痘法を完成した医師
ベッテルハイム博士と仲地きじんのイラスト 疱瘡と呼ばれた天然痘は、古くは奈良時代に伝来し、死亡率3〜5割という恐ろしい病気とされていた。その原因が分からず、天然に発生するところからその名が付いたといわれている。治療法は、紀元前から人痘種痘法が用いられ、中国では、1,000年前から行なわれていた。
 しかし、日本では疱瘡神への祈祷、源為朝や金太郎の絵をまじないとした原始的な治療しか行なわれていなかった。琉球国では、病原地のインドから各国を経て、18世紀の初期に伝染し、国内の僧侶は祈願によってその害を防ごうとしたと記録されている。日本国でも、ようやく江戸時代に中国式治療法を移入して治療にあたったが打つ術がないというのが実状であった。

 当時、琉球国は、鎖国令が布かれていた日本国の中で、唯一異国との交流が可能な地域であった。進貢船をあやつり、中国、東南アジア、朝鮮国との交易で王国を維持していたのである。琉球国は異国の文化、文明をとりいれながら独自の王朝文化を築いていた。その意味では、異国の先進文化、情報の集積地域であった。
異国の人々も鎖国の日本を避け、まず、琉球で日本国の情報を収集したうえで目的地、日本へと向かった。また、琉球は異国の渡来船に対して、水、食糧、薪などを無料で提供しこれを迎えたので、東シナ海の中継地点としての役割を果たしていた。
 1846年、イギリスから布教を目的にベッテルハイム博士が来琉した。彼は、キリスト教が禁じられている日本に直接上陸するより琉球での布教を考え、妻、子供二人を伴って琉球国に滞在することを決意したのである。

 医師でもあったベッテルハイムは、那覇の町で貧困な人々の治療に当たり人々に親しまれるようになった。「ナンミンヌガンチョー」と呼ばれたベッテルハイムは琉球語を修得し、那覇市内の医師を訪ねて歓談し、西洋医学の知識を伝授しようとした。その一人に仲地紀仁がいた。仲地は、1789年、泊の医学者の長男として誕生し、家伝の医学を修得し、医療を天職として志していた。26才の時、中国に渡り内科、眼科を学び、帰国の時、遭難で漂着した薩摩でさらに外科を覚えて帰国した。卓越した彼の医術は、中国の漂流者の病を完治し、王府から表彰された。
 医術の腕を認められた仲地は、宮古島の医師として二度にわたり派遣される。那覇に帰った仲地は、泊と那覇で発生した天然痘の治療に、中国で体得した人痘治療を用いて医療奉仕を行い、再度、王府から褒賞を受けた。ベッテルハイムは、仲地を見込んで最も優れた牛痘種痘を伝授することになる。西洋人との交流を禁じていた薩摩の目をのがれて、仲地は波之上の洞窟の中で教えを受けた。仲地は苦心の末、膿疱を持つ牛を入手し一八四八年、牛痘種痘法を完成させた。この後、1849年、長崎で蘭医モーニッケが、鍋島藩の姫に接種したのが日本各地に広がっていったのである。

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2004年09月02日

仲宗根豊見親

宮古を統一した英雄、仲宗根豊見親

rekishi_001.jpg宮古島には、戦乱と統一の歴史がある。 集落の首長である天太が支配する時代を経て、14世紀中半から宮古島も「争乱の時代」へと突入する。西銘、仲宗根を初めとする各地域には、外にも按司、殿、豊見親の名称で呼ばれる、保里天太、糸数大按司(糸数城)、根間大按司、白川大殿、飛鳥翁(西銘城)、思千代按司(石原城)、起目逸殿、小眞良波按司(狩俣)の実力者達が登場する。  十四世紀の後半、さらに宮古の戦乱の火の手をあおる集団が登場する。平良市の東部に与那覇原軍と呼ばれる強力な軍団が、降って湧いたかのように出現する。首領、佐多大人に率いられるこの一団は、一千名の兵で構成され、進軍する途中の城や各集落を攻略し、島民を惨殺する凶暴な軍団だったと伝えられている。   思うままに侵略する与那覇原軍を迎えうって奮戦し、勝利をおさめたのが目黒盛豊見親であった。敗れた与那覇原一族の眞佐久が、船を仕立てて琉球国に渡る。

1390年、中山王、察度に拝謁した眞佐久は、王命により宮古島主長の任を授けられる。帰島した眞佐久は島民から、与那覇勢頭豊見親と称され、実質的権力者である目黒盛豊見親と対立する形となり、島内を分割した二大勢力が誕生することになる。
  この二大勢力を統合し、再び宮古島の統一政権を打ち立てるのが、目黒盛豊見親の五代目(玄孫)の仲宗根豊見親である。幼名を空広と称した仲宗根豊見親は、15世紀中半、双生児の一人として生まれたとされているが、不思議なことに生没年は不詳である。空広は幼い頃、与那覇勢頭豊見親の孫にあたる大立大殿恵幹と遭遇し、その卓越した才能を認められる。大立大殿は、後見役として空広の才能を磨き上げ片腕として登用した。  与那覇勢頭側の後継者、大立大殿の長子能知伝盛大親が病死すると、人々の期待感は空広へと集中し、空広はその実力名声ともに高まり政治基盤を強固にしていった。
 一四七四年、空広は能知伝盛の死後、18才の時に琉球国を訪ね、第二尚家の祖、尚円に拝謁し宮古島の首長を拝命したと伝えられる。
 その陰には、大立大殿の助力があったと考えられ、空広は仲宗根豊見親と称され、ここに二大勢力の統一が空広の手で達成された。
1500年、仲宗根豊見親の実力者としての能力を試される大事件「オヤケアカハチの乱」が勃発した。
 首里王府軍の先鋒をつとめ、乱を平定した仲宗根は尚真を頂点とする琉球王国の体制の一翼を担い、以降、宮古島の支配者として君臨し、水の確保、下地橋道に代表される土木工事、行政、税制等を整備し、宮古を代表する英傑として記録されている。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

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