沖縄生まれ沖縄育ち。南の楽園で生まれた爽やかなビール、オリオンビール。

オリオンビール株式会社

2010年05月06日

ミュージシャン 下地勇さん

ミュージシャン 下地勇さん
宮古方言を駆使した歌で音楽界に新たな風を吹き込んだ下地勇さん。オリオンドラフトビールのCMでは甘いマスクと爽やかなCMソングに心ときめかせているファンも多いはず。人柄を感じさせるデビュー秘話からは、天から与えられた音楽の道だったことを確信しました。

歌手になったきっかけ
直接的なデビューのキッカケというわけではではないんですが、親父の還暦祝いに歌を作ってテープを贈ったんです。すると、その曲を聴いた人たちがテープをダビングしたいといいだしたんです。それが広まり、宮古テレビに取り上げられて、それから一気に宮古中に広まったという感じなんです。さらに本島に住む宮古の人たちが噂を聞きつけて郷友会の芸能祭への出演を依頼してきたり、当時はサラリーマンでしたし、まさか、自分が歌手になるなんて思いもしませんでした。 

還暦祝いの曲とは?
とにかく親父に笑ってもらおうと思って作ったんです。A面は「サンフランシスコベイブルース」のメロディに、自分たちの住んでいる久松という地区の風習とか、おじーが言ったひと言など、笑えるものを集めて3番まで全編宮古方言の歌詞をつけて歌いました。それが「さばぬにゃ〜ん」(草履がない)という歌。それから、A面だけでは物足りないと思って、生まれて初めて自分で作詞作曲した「我達が生まれ島」(ぼくらの生まれた島)という曲の2曲をテープに収めてプレゼントしました。それまで音楽活動などは、何もしたことがなくて、中学生の頃に、フォークソングをギターでコピーしていたくらい。コードも4つくらいしか知らなくて、その4つの音を組み合わせて、やっとの思いで作ったんです。まるでしゃべるみたいに歌ってます(笑)。

方言で歌うこと
宮古方言で歌うことで注目されましたが、何の意図もなく始めたことで、民謡って方言で歌っているし、何も珍しいことではないと思っていたんですよ。ただ、三線じゃなく、ギターをもってブルーススタイルでやったことに対して面白いぞ、ということになったみたいですが。自分としては何の違和感もなくて、皆さんに言われ、珍しいことなんだと気づきました(笑)。自分がただ伝えたいことを伝えやすい形で作っただけ。僕にとって方言はリズム感があって、メロディに乗せやすいんです。
ただ、話題になったことで、2曲目は?と期待され、素人ながらに下地勇が作る曲というのを意識するようになりました。そこで、やっぱり、自分の曲の原点となったのは宮古方言だと思い、方言をもう一度勉強し直すことにしたんです。すると新たな発見がいっぱいあって、この言葉はジャズに合いそうだとか、ジャズが何たるや解りませんでしたが(笑)、また、「我達が生まれ島」ならシャンソンがいいかもと言ってくれる人がいたり、ボサノバもいいんじゃないとか。僕としては、そんな音楽のジャンルもあるのかと感心しきりで(笑)、それならと、いろんな音楽を聴きだしてみると方言と音楽がシンクロしたりしてだんだん可能性が見えてきたんです。それで、また曲が生まれ、2枚目のCDを出し、3枚目でメジャーデビューすることになったんです。

「南の島で」について
オリオンビールのドラフトビールのCM用に曲を作ってくれという依頼を受けるなんて光栄でしたね。最初に絵コンテを見せてもらったら、そこには青い空と海をバックに僕がジョッキでビールを飲んでいて、それに合うような曲ということで、爽やかな南風をイメージして作りました。言葉にはこだわらないということでしたが、多くの人に宣伝するにはみんなに伝わる言葉が良いだろうと思い標準語にしました。お酒を楽しめるライブで、この曲を歌うとかなり盛り上がりますね。ビール一日大学でも大盛り上がりでした。

将来のこと
自分の音楽を追究していくということに変わりはありません。本物の音楽を求めていきたいですね。そして、口づてでも、ネットでも何でも良いから地球の裏側まで、自分の音楽を届けられる日がくるといいなと思います。自分が生きている間でなくてもいいんです。100年くらいのうちに、世界のどこかで自分の曲が聴こえてくるような、そんなことをイメージしながら、曲を作っていきたいと思っています。

※インタビュー直後、台湾でのCD発売が決定!まさに世界で下地勇の歌が聴ける日も近い!!




プロフィール
1969年生まれ 宮古島出身 宮古高校を卒業し、18歳で上京。音楽とは無縁の7年間の東京生活を終え、沖縄に戻る。本島でサラリーマンをしていた30歳の時、父親の還暦にオリジナル曲を贈ったところ、宮古であっという間に話題に。2002年インディーズでシングル「我達が生まれ島」、同年にアルバム「天」もリリースし、一躍時の人に。これを機にサラリーマンを辞め、ミュージシャンに転向。2005年にはインペリアルレコードからメジャーデビューを果たし、県内外でライブ活動を精力的にこなす。現在までに6枚のオリジナルアルバムをリリース。

投稿者 breakjp : 13:43

2009年09月23日

赤嶺 梨奈

健康的な笑顔としなやかに伸びた手足が、新商品「ゼロライフ」のCMにぴったりだと評判の赤嶺さんは東京で活躍中のモデル。その場を和ませる明るさと真剣なまなざしで仕事に取り組む姿にさらなる活躍の予感。

赤嶺 梨奈


モデルになったきっかけ
知人に頼まれてファッションショーに出たことがあって、その時に沖縄のモデルクラブの方にスカウトされたのがきっかけですね。でも、学生だったので学業優先で、モデルの仕事はそれほどしませんでした。卒業してから、本格的にモデルの仕事をしたいと思って東京に出ることにしたんです。

東京での生活に戸惑いは?
 最初は、大変でした。電車の乗り方もわからないし、駅員さんに聞いても、私のなまりがひどくて伝わらないし(笑)。なぜか、原宿や新宿に行くとお腹をこわすし、水も合わないし、どうしようかと思っていたんですが、最近ようやく慣れてきたところです。なまりは事務所の人に音読が良いということを教わり、声にだして本を読むようにしてます。簡単ですが効果あるんですよ。

仕事の楽しさ、大切なこと
 いつも現場が違うことや、常に新しい出会いがあるのはとても刺激的で楽しいですね。そして、以前に一緒に仕事をした人と、違う現場で再会できたときのうれしさや楽しさもあるんです。人との出会いは本当にステキですね。
 この仕事をしていて一番大切だと思うのは、当たり前のことなんですけど、自己管理ですね。何かあったときには、私一人のために沢山の人に迷惑をかけることにもなるので、それだけはしっかりとやっていこうと思っています。以前に、撮影当日39度の熱をだしてしまったことがあって、その時はうまく乗り越えられたんですが、それ以来、プロなんだから自己管理をしっかりしなくてはと思うようになりました。
 
オリオンビールのCMが決まった時の気持ちは
 最初は、自分がメインだなんて思っていなくて、イメージとしては具志堅用高さんの後ろあたりにいるエキストラ的な感じ(笑)だと思っていたので、絵コンテを見てびっくり。これってメインってこと!!と驚き、ヤッターってガッツポーズでした。だから本当は家族や友達にすぐに言いたかったんですが、CMが決まっても、CMがオンエアされるまでは、秘密なので誰にもオリオンビールのCMの撮影だとは言えなかったんです。だから、みんなびっくりすると思います。特におじいちゃんはオリオンビールが大好きなので一番喜んでくれると思います。

新商品はヘルシーな「ゼロライフ」ですが、体のために努力していることは
 モデルの仕事をするようになって野菜をたくさん摂ることを意識するようになりました。時々、母に頼んでゴーヤーや島ニンジン、島バナナなども送ってもらったりしています。食事以外では、週に3回のジョギングに加えて、最近、水泳も始めました。自己管理をする上で、食事とスポーツはとても大切だと思います。

これから目指すものは
 モデルをしながら今後は女優としても挑戦していきたいなと考えています。1年半前から演技の勉強もしていて、最近はスチールだけではなく、演技を要求される仕事も増えてきていて、努力していることが結びついてきた感じがしています。また、これからも仕事を通して沖縄ともっと関わっていけたらいいなと思っています。 

【プロフィール】
1983年生まれ 沖縄県那覇市出身
県内の専門学校在学中にスカウト。卒業後、東京で本格的にモデルとしてのキャリアを積み、現在、CM・雑誌・広告・ショー等のモデルとして幅広く活躍中。

赤嶺 梨奈



投稿者 breakjp : 09:18

2009年05月05日

比嘉ブラザーズ

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満を持して比嘉ブラザーズ登場!!
ハリウッドでSFXを学び、メジャー映画デビューを果たしながらも、
帰国。都会ではなくあえて沖縄で拠点を構え、
自分たちの信じる道を貫く彼らにその思いを訊いた。


仕事のきっかけとなったものは

一哲 小さい頃毎日、粘土でおもちゃを作って遊んでましたね。それと漫画好きで手塚治虫先生などの漫画をよく読んでいて、漫画家になりたいと思っていました。だから、漫画や粘土遊びがこの仕事のきっかけになったといえるかも知れませんね。
之典 その後、映画「シンドバット」や「おかしなおかしな石器人」などを見て、人形アニメーションというものがあることを知り、中学校1年の頃には、中子真治さんという方がアメリカで現地取材した映画の裏方さんを紹介する本と出会い、SFXのことを知って、それからは寝ても覚めてもSFXのことばかり。

一哲 だから、周りのみんなは部活をやっていたんですが、僕らは、夢中でSFX関係の本を探しだしては読み、人形アニメを見て研究し、家のビデオで映画作りの真似事をしていました。その頃は材料も情報もなくて、同人誌の「譲ります」のコーナーや通販で材料を調達したりしていましたね。
之典 1ヶ月くらいかかって、怪獣の顔を作ったのに、石膏が固まらなくて無駄にしたり、失敗もいろいろありました。試行錯誤の繰り返しです。
一哲 中学高校とそんなことばかりやっていたので、卒業したらどうする?ってことになったんです(笑)。


映画の都ハリウッドへ

之典 高校を卒業して1年間バイトしたお金でアメリカに行き、英語を学びながら、自分たちの作品をスタジオに持っていって見てもらっていました。片言の英語でしたが、作り手は作品を見れば気持ちがわかってくれる部分があって、次々にスタジオを紹介してくれたりしてネットワークが広がっていったんです。
一哲 それでスクリーミングマッドジョージさんのところで2年程お世話になって、その後、「おかしな石器人」の恐竜を作ったデービッドアレンさんが声をかけてくれて一緒に仕事をすることができました。夢のようでしたね。時代的にはジュラシックパークなどが作られている頃で、CGに移行し始めていました。ですから、行く先々でビジネスを学べとか、コンピュータを学べとかということも言われましたが、僕たちはこれがやりたいんだということを強く言ったことを覚えています。


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時を超える人形アニメへの情熱

之典 友人に呼ばれて98年の末頃まで東京で仕事をしていましたが、僕たちには沖縄の民話の「鉄の子カナヒル」を人形アニメ映画にしたいという思いがあって、東京で仕事していてもそれが気になって、頭から離れないんです。それで沖縄に戻ってすぐにとりかかったんですが、制作に9年もかかってしまいました(笑)。なにしろ、資金も人手もないので、ほかで仕事をしながらその給料を資金に当て、家族にも手伝ってもらいながら。でもハリウッドでもこの手の映画は4〜5年かかるんですよ。
一哲 2007年完成した「鉄の子カナヒル」は桜坂セントラルさんの協力で、去年1年間いろいろな市町村で上映会をさせていただきました。また、県立博物館では儀間先生の個展に合わせて上映会をさせていただきました。



近況とこれから

一哲 最近ではRBCさんから沖縄のホームソングの「ガジマルオジー」や「琉神マブヤー」の話をいただいたり、芸大の非常勤の講師として、フィギア造りを教えたり、桜坂セントラルでワークショップを開催したりと自分たちがやっていることが少しずつ認められてきたのかなと感じています。それと、いくつかつくりたい映画があって、現在構想中です。東京に負けないものを作りたいですね。
之典 映画だけでなく、フィギアやイラストなどを芸大やワークショップなどで教えているのも沖縄の若い人たちに育って欲しいから。層が厚くなることで沖縄でもしっかりしたものづくりができるようになると思います。また、去年あたりから沖縄のアーティストの方とも交流を持つ機会が増えていて、これからお互いに協力し合って何かができるんじゃないかと思っています。

【プロフィール】
沖縄県読谷村出身。特撮の神様レイ・ハリーウンゼンの「恐竜100万年」「シンドバッド」シリーズ、デビッド・アレン、ジム・ダンフォースらの「おかしなおかしな石器人」などの人形アニメーションに多大な影響を受ける。高校卒業後SFXの仕事を夢見てアメリカに留学し、念願のデビッド・アレンの下で働く。97年帰国、東京で「学校の怪談」などのSFXに携わった後、沖縄へ戻り、映画「鉄の子カナヒル」を制作。2007年RBCオキナワのホームソング「ガジマルオジー」、2008年「あぱぴあぽん」の人形アニメ担当。



※SFXとは、特殊撮影を意味する略語。映画やテレビの撮影などで用いられる人為的に作りだした特殊効果のこと。


投稿者 breakjp : 11:55

2008年10月12日

プロサッカー選手 我那覇和樹

我那覇和樹沖縄出身として初めて日本代表に名を連ねた経験を持つストライカー。
Jリーグのピッチを疾走する「ウチナー魂」!
その決定力が勝利を呼び、新たな地平を切り開く!!


サッカー選手としてプロを意識し始めたのは?
僕は沖縄出身のJリーガーとしては三人目なんですけど、石川研さん、喜名哲裕さんがプロへの道を作ってくれたと思い感謝しています。喜名さんは地元も同じ小禄中学校の先輩で、僕が中学生の時には、プロになっていて憧れの存在でした。宜野湾高校では、一年と三年の時の高校選手権で全国大会に進みました。一年生での出場時に、Jリーグの幾つかのクラブが声を掛けてくれて、練習に参加したんです。そこでプロになりたいと意識し始めました。高校卒業と同時にフロンターレに入って、今年で十年目です。

練習やオフはどのような頻度ですか?
練習場としては麻生グラウンドがメインで、ホームスタジアムの等々力陸上競技場でも時々。オフ明けは午前と午後の二部練習が多いですけど、それ以外は毎日午前か午後のどちらかです。オフは、試合の日程によって週イチであるかないかといった感じです。長期のシーズンオフの年末年始には、毎年沖縄に帰っています。宜野湾高校の「初蹴り」にも参加させてもらったり。僕の原点だし、皆と顔を合わせる機会もそう多くはないので、そんな時には非常に力をもらいますね。

沖縄出身の人達との交流はありますか?
やっぱり沖縄は郷土愛というか、「イチャリバチョーデー(一度出会えば兄弟)」の言葉通り打ち解けられるし、仲間意識が強いです。サッカー以外での沖縄の知り合いはあまりいないんですけど、FC東京に赤嶺くん(赤嶺真吾選手)がいるので、よく話をしますね。彼も中学の後輩ですが、県外へ出て鹿児島実業高校ではレギュラーでしたし、FC東京でも活躍しているので、一緒に沖縄を引っ張って、盛り上げていけたらなって思います。

2006年に沖縄出身としては初めて日本代表に選ばれました。
サッカーをやっていて、沖縄の人でもこれだけ出来るっていうのを見せたかったし、その結果として代表に選ばれることで、後輩達が続くような道を作りたい気持ちもありました。夢は諦めなければ叶うもんだって、身体と行動で表現したかったですし。もちろん、また代表に戻れるように頑張りたいです。


フロンターレのフォワードでは最年長ですね。
そうですね。まあ、いつの間にか年をとってしまって(笑)。気持ちは若いままなんですけど。チームはメンバーもそれほど変わらず、きちんとした土台があって、その上で成長出来ているのが最近の強みですね。ただ、そうは言っても選手だけでサッカーは出来るもんじゃないですし、サポーターの皆さんの力があって成り立っているので、感謝しています。最近は、スタジアムのスタンドも毎試合いっぱいになるくらいなので、選手としては心強いです。今年こそはタイトルを取りたいって、チームの皆で話しています。本当にいい位置に付けているし、上位にはプレッシャーをかけながら、自分達としては勝つことしかないので、シーズンが終わった時には笑っていたいですね。そのために、試合に出て点を取ってチームの勝利に貢献したいです。


最後に沖縄の読者へメッセージを。
沖縄で生まれ育って、…でもサッカーしかしてこなかったイメージなんで(笑)。ただ、沖縄の環境っていうのは、子供達が伸び伸びと成長出来るようなところは気に入っているし、誇りに思っています。沖縄のサッカーチームの試合結果も常に気になりますし、頑張って上のカテゴリーに上がってきて欲しいです。将来的にもずっとサッカーに携わって、いつか沖縄に何か恩返しをしたいですね。沖縄の子供達もJリーガーになりたいって目標を持って、是非頑張って欲しいです。スカウトの人達からも、能力が高い子が多いって話を聞きますし、自信を持っていいです。僕がここまでサッカーを続けてこれたのは、沖縄の皆さんの後押しが大きな力になったので、これからも応援して下さい。僕はそれに対して、結果で応えていきたいです。


我那覇和樹

【プロフィール】
1980年9月26日生まれ。那覇市出身。
宇栄原FC、那覇市立小禄中学校、沖縄県立宜野湾高校を経て、1999年にJリーグ・川崎フロンターレ入団。2000年Jリーグ優秀新人賞。2006年Jリーグ得点ランキング3位(日本人選手最多タイ18得点)、Jリーグアウォーズ優秀選手賞。イビチャ・オシム監督就任と同時に日本代表に選出。国際Aマッチ6試合3得点。2007年AFCアジアチャンピオンズリーグ出場。

川崎フロンターレ公式サイト
http://www.frontale.co.jp/
個人ブログ「GANAR」
http://ameblo.jp/ganakazu/




投稿者 breakjp : 08:35

2008年03月03日

シンガーソングライター 伊禮麻乃

伊禮麻乃高校在学中に史上最年少で古典音楽安冨祖流教師免許の取得、2006年には古典音楽最高賞の受賞など、輝かしい実績をもつ沖縄のディーバは「歌っている時が一番楽しいし、素の自分」と三線片手に伸びやかな声で爽やかな風を巻き起こす。

●音楽との出会いは?

祖母が古典音楽の琴の教師で、その影響で母が三線を習っていたり、父親が趣味でピアノやギターを弾いていたりと家族中がなにかしらの楽器に携わっていたので、音楽をすることはとても自然なことだったし、遊ぶように音楽に親しんできました。10歳の頃には父のピアノで簡単な曲を作ったりしていましたね。三線と太鼓は15歳から師匠について本格的に習い始めました。

●古典音楽は中学生にとって退屈ではなかったですか。

古典の歌って、歌であって歌でないような独特な曲調なので、そう思うかもしれませんが、私としてはどうしてこんな歌ができたんだろう。どうして、どうして・・という好奇心が次々に湧いてきて、のめり込んでいったんですよ。それと、師匠が最初に歌詞の内容とか歌の経緯とかも丁寧に教えてくれたことで歌をちゃんと捉えることができたので、退屈なんてことはなかったですね。ただ、コンクール前になると特訓があって師匠と一対一で、長〜い時間繰り返し練習するんですが、その時は三線をもったまま、眠ってしまったことがありましたね(笑)。

●古典音楽のコンクールでは輝かしい成績を残されている一方で、バンド活動もしていたそうですね。

高校生の時には、ヒップホップバンドで、キーボードをしたり、ボーカルをしていたんですよ(笑)。音楽はジャンル関係なく好きで、何でも見たり聞いたりしていたので、私のなかでは古典をやることもヒップホップをやることも全然違和感はありませんでしたね。ただ、オリジナル曲を作った時に、バンドのメンバーから、私が作った曲はどこか沖縄的なものがでてくるよねと言われて、ハッとしたことがあったんです。しゃべっているとナマリが自然にでてくるように、自分では意識していないところで、知らず知らずのうちに自分の色って出るもんなんだなって思いましたね。それと同時に、音楽は自分を表現する方法なんだと強く意識するようになりました。
高校3年の時、「アダンの実」という古典音楽のミニアルバムを出したんですが、その中には沖縄音楽とクラブミュージックやヒップホップを融合させた曲もあり、自分の根底にある古典とその時の等身大の自分を表現したものだったと思ってます。

伊禮麻乃取材協力:ラグナガーデンホテル
沖縄コンベンションセンター内レストラン「ラナイ」


●麻乃流曲づくりとは?

今、この瞬間でもOKというくらい、曲づくりはいつでもしちゃいますね。表現したいものはいつでも身のまわりに溢れていて、それが曲となって、あるいは詩となって生まれてくる瞬間があるんです。タイミング的なものもあったりするんですが、例えば、人と話していて感動をもらったりした時、散歩の途中なんかも、よくでてきますね。その時に、生まれてきたメロディーは、携帯に録音して記録したり、そのワンフレーズを鼻歌で歌ったりして覚えて、それを家に帰ってから、膨らませていくんです。詩の場合は集中できるところで、何度も書き直して、本当に自分が表現したいことが言葉に忠実に表現されているかを自問自答しながら磨いていく感じですね。

伊禮麻乃

●この春大学を卒業されるそうですが、これからの活動は?

アーティストとして、これまでより本格的に活動していきたいなと思っています。今、いっぱい曲を書いているんですが、まずはその曲をいろいろなところへ行って自分の生の声で届けたいですね、それからもっとたくさんの人にとどけられるようにカタチにしていきたいと思っています。これまでは学生だったので、県外でのライブは週末にしかできなかったりしたんですがこれからは、呼んでいただけるのであればどこでも行きたいですね。それは私にとって楽しみなことでもあるんです。沖縄とは全然違う環境に出かけていくのはとても刺激になるし、曲が生まれることも多いんです。それに美味しいものも食べられますからね(笑)。

●目標にしていることはありますか。

とにかくずっと歌を歌っていたいですね。それで、なお且つ色んな人と歌を分かち合えたら素敵だなあとおもいます。また、三線の教師免許も持っているので、おばあちゃんになったら子供たちに教えるというのもいいですね。とにかくずっと音楽に関わっている人生になるといいなと思っています。


プロフィール

1985年生まれ。北谷町出身
幼い頃からさまざまな楽器に触れ、音楽に親しむ。15歳より琉球古典音楽を始め、三線、太鼓を本格的に学ぶ。高校在学中に古典音楽三線と太鼓で優秀賞を受賞。さらに2005年、史上最年少で安冨祖流教師免許を取得。2006年には古典音楽最高賞を受賞。また、高校在学中に古典音楽のミニアルバム「アダンの実」を発表。2004年オリジナル1stアルバム「Life is melody」、2005年には「楽園」、2006年には「南国時流」を発表。2007オリオンドラフトビールのCMに出演。現在、県内外でライブ活動中.


下記の場所で麻乃さんに会えます。要チェック!!
* 2月15日(金)沖縄県観光PRキャンペーン 福岡博多天神 きらめきスクエアー
* 2月24日(日)麻乃会第7小節 宜野湾市 ケイマインド

投稿者 breakjp : 16:06

2007年09月29日

ALL JAPAN GOITH

ALL JAPAN GOITHオリオンビールのCMでもすっかり耳なじみなったオールジャパンゴイス。輝きを放ち始めた原石たちは、今まさに時間を惜しむように自らに磨きをかけ、眩しいほどに光り輝く日本一のすごいバンドへと進化中。今回は、リーダーのテツGとボーカルのチョメの2人を中心に6人のメンバーもチャチャを入れつつ、賑やかなインタビューとなりました。

★バンドを始めるきっかけ
テツG そもそも、チョメ、テツG、モッキー、ターシーの4名は糸満高校の同級生。それぞれ別でバンドや、吹奏楽をやってたんですね。ある時、文化祭の後夜祭で、チョメと僕テツGが面白いことをやろうと企んだのがバンドの始まり。その頃はモンパチさんが大ブームでスリーピースバンドが多かったんですが、管楽器を入れた派手なバンドをやろうぜということになって、チョメが吹奏楽部だったターシーに声をかけ、12名くらいのメンバーで演奏したことが、きっかけ。その後、何やかんやで、現在のメンバー8名になりました。

★管楽器のメンバーは吹奏楽部の出身ですか?
テツG ターシー以外はバンドを始めてから楽器を始めたんですよ。僕も大学に入る時、オヤジにトロンボーンおねだりしちゃいました。
チョメ エンナに至っては、ホントに何も知らなくて、ドレミから教えました。
エンナ 一応、できるって言って、だました感じ(笑)。

★どうしてスカしっぺからオールジャパンゴイスに?
テツG 高校の時に、管楽器が入ったらスカだろうという感じのノリでスカをバンド名に入れたんですけど、スカのことはよくわからないし、ただ、裏打ちをしていただけで、これでは、本気でスカをやっている人たちに申し訳ないと思って、スカというジャンルにこだわらず、管楽器の可能性を広げていける音楽をやっていこうと改名したんです。

★ところでゴイスって?
ターシー バンドの目標を掲げたかったので、日本を代表するスゴイバンドになろうってことで、このバンド名にしたんです。スゴイスゴイ・・ゴイスみたいな(笑)。

★メジャーデビューして変わったことは?
チョメ 視野が広くなったかな。全国いろんな所に行って、ファンと会ったり、いろんなミュージシャンに会って音楽に対する姿勢に触れたりして、モチベーションが上がったり、逆に壁にド~ンとぶつかったり、毎日が刺激的。インディーズの5年間と比べて、メジャーデビューしてからの4か月はとても濃いですね。自分たちが何をするべきかわかってきた感じ。オリオンビールのCMにも出られたし。
テツG そう、親がかなり喜んでました。やっと認められた。
チョメ とにかく親戚友人知人、いろんな方面から反応がありましたね。絶対言われますもん。やっぱ、地元のオリオンビールすげぇと改めて思いました。


ALL JAPAN GOITH




★全国ツアーが終わったところですが手応えは?
テツG メジャーデビューしてからのツアーは、より範囲が広くなり、全国各地の人たちに会えるのはとてもうれしいし、僕達も楽しいですね。県民性が見えたりするのも面白いですよ。
エンナ それから各地のおいしい物が食べられるのも幸せですね。ツアーは大変でしょっていわれるんですが、楽しくておいしいくて沖縄に太って帰ってくるんですよ。
チョメ メンバーで一番食べますからね。みんな食べ物屋に引きずりまわされているんですよ。


ALL JAPAN GOITH



★全国ツアーが終わったところですが手応えは?
テツG もっとバンドとしてビッグになっていつかドームでやってみたいです。今はとりあえず頑張るのみ。個人的にはトロンボーンがうまくなって、トロンボーン演奏者としても名のあるアーティストになりたいですね。
チョメ いろいろ見えてきた自分のマイナス要素を直し、プラス要素を伸ばしてボーカリストとして成長したいと思ってます。
ハマショー 全国のファンやスタッフの生活のなかにいつでもゴイスがあるという状況をつくりたい。
すぐる たくさんの人に愛されるバンドになりたい、オールジャパンゴイスが一番だっていわれるようになりたいです。
ターシー 親にはビギンさんのような曲をつくりなさいとか、勝手なこといわれるんで(笑)、誰もが認めるいい曲を作りたいなと。
エンナ 演奏力をもっとあげたい!いろいろやりたいパフォーマンスがあるんだけど、実力がないのにそんなことできないでしょ。ホントは顔を紫に塗ってやりたいんですけどね。
マットー えぇ~、そんなこと~(笑)。自分的にはドラマーとしてワンビートで勝負できるドラマーになりたい。将来的にはいろんなことができるマルチプレイヤーを目指してます。今は、ただの出たがりドラマーみたいになってますけどね。
モッキー いい曲作ったり、演奏力を上げていくのはもちろんだけど、個性を生かしてみんなに愛されるっていうのも大事なんじゃないかと。
テツG こういうメンバーでドーム目指しますので、これからもよろしくお願いします!!


プロフィール
2001年学園祭ライブをきっかけに「Skaしっぺ」結成。2001年には1stアルバム「WE ARE Skaしっぺ」をリリース。2004年オレンジレンジの全国ツアーのサポートアクトやSUMMER SONICに出演。2ndミニアルバム「スカシタミンAG」をリリース。2007年4月「ワーニバル」を引っさげてメジャーデビュー、5月「メロディ」がオリオンビールCMに採用、出演。7月2ndシングル「恋せよ乙女/ハリーハリー」リリース。8月には全国ツアーと怒濤の快進撃中。



投稿者 breakjp : 17:35

2007年03月10日

歌手・タレント 安良城紅

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透き通った伸びやかなその歌声とともに、「紅、青に染まる。」のキャッチコピーで、オリオン・サザンスターのCMに登場の安良城紅。
活躍の場を広げる歌姫は、沖縄の陽射しに映えるアカバナーのように、紅色の魅力を絶え間なく次々と開花させてゆく!

●お母さんが沖縄出身とのことですが、紅さん自身は沖縄に住んでいたことはあるんですか?

生まれたのは沖縄なんですよ。小さい頃は沖縄に住んでいて、小学生の頃はずっとアメリカと行ったり来たりだったんです。二年間ぐらいアメリカにいて、また日本とか。その後、お父さんの仕事の都合で神奈川に移って、デビューしてから今は東京にいますし…って、何だかすごい面倒くさいプロフィールなんですよ(笑)。


●紅さんというのは素敵な名前ですが、その由来は?

ありがとうございます。お父さんとお母さんが、花の名前を付けたかったらしくて。いろいろ候補があって、最終的に「さくら」か「ローズ」か、そういうすごくベタな(笑)ものが挙がって。でも、決めるときには、親戚とかみんなで会議をしたそうなんです。「いや、花、特に桜とかバラとかは、すぐ散るし」(笑)という話になって。それなら、花の色、しかも沖縄だと「紅」という色は印象的ですし、それで決まったんです。

●沖縄に対しては故郷といった感覚はありますか?

はい、やっぱりありますね。家族もいるし、自分の生まれた場所ですから。将来住んでみたい気持ちもあります。自分の故郷(いなか)としての感覚は強いですね。沖縄に帰ってきた時の気持ちとか、雰囲気とか、他のどこにも無いですし。そんなことを思うと、ここに居てホント寂しいですよ(笑)。だけど、そのかわり帰るときに、スッゴク楽しくなるんですけどね。


●CMの撮影は沖縄だったんですね。

ロケーションのシーンは、北谷の美浜です。CM撮影に併せて、沖縄のラジオやテレビのコメントとか、いろいろ回りました。やっぱり、なかなか気持ちが「仕事モード」に入れなくて(笑)、行ったラジオ局とかも国際通りのど真ん中だったり、「あれ、こんな所にあるんだ」みたいな。仕事以外では入って行く機会も無い場所もあって、沖縄での新たな発見!というか、普段沖縄に行った時とは違って、新鮮でしたね。

●もうすぐ二十一歳ですが、お酒を飲める年令になった年のCM出演でしたね。ビールやお酒を飲む機会は?

そうですね、ちょっとビックリしましたね。二十歳になって、ちょうどタイミング良く。お酒を飲む機会は、仕事終わりの打ち上げとか、スタッフの皆さんと。十八歳でデビューしたので、今まで二年間はずっと「ウーロン茶で乾杯!」でしたけど。みんなとビールで乾杯が出来るようになったのは、やっぱり嬉しいですね。ビールの味は、初めて飲んだときはちょっと苦手でしたけど、みんなが「お疲れさま!カンパ〜イ!ゴクゴク、プハ〜」っていう、最初のあれを見て、「ああ、絶対旨そうだな」って(笑)。やっぱり、最初の一杯はビールですね。特に沖縄料理の店に行ったりすると、オリオンビールがありますよね。


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●CMに出ての反響は?

いや〜、今回ホントにテレビの力って凄いなって思いましたね。CMは、十月に撮影があって、十一月ぐらいから流れていたと思うんですけど、お正月に沖縄の実家に帰ったら、前より全然、外で声を掛けられたりするんです。しかも、おじいちゃんやおばあちゃん達にまで。「オリオンって、さすがだな」なんて思いました。それまで、沖縄に帰ってTVを見るたびに、オリオンビールのCMがたくさん流れてるなっていう印象は持っていたんですよ。ですから、自分もそれに出れるなんて、すごく嬉しいし。これを機会に沖縄でも、もっともっと、たくさんの人に知ってもらえたらなって思いますね。

●去年はNHKの「新感覚☆キーワードで英会話」にも出演していましたね。

実際に勉強してる人たちからは、「覚えやすい」ってすごく評判が良くて。自分は、アメリカンスクールでしたから英語はメインで使っていましたし、直訳の意味ではない、単語が持っている考え方とか、そういう感じで習ったことは無かったんです。番組の中では教える役でもあったんですけど、自分自身も改めて勉強になりましたね。

●新曲「Luna」が主題歌になっているドラマ「わるいやつら」が始まりました。

今回はバラードで、シングルとしては初めてですね。大人っぽくて、すごくドラマチックな曲だと思います。
以前も同じ米倉涼子さん主演の「黒革の手帖」(2004年)の主題歌「Here alone」を歌ったんですが、その時はドラマの雰囲気そのままに近い、ちょっとミステリアスな感じの曲でした。今回は、男と女のドロドロした内容のドラマを見たあとに、敢えて気持ちを落ち着かせるようなバラードになっていて、とてもイイかなと思いますね。ドラマも是非見て下さい。

●最後に今後の抱負を

去年は結構いろいろ新しい経験も出来ましたし、これからも、その流れでいろいろな仕事にチャレンジしたいですね。もちろん、ライブもしたいですし、とにかく、ファンとかみんなの期待に応えられるように歌っていきたいです。今年もマイペースに、ハッピーな一年にしたいなと思いますね。いつかは必ず、沖縄でもライブをしたいので、これからの安良城紅を応援よろしくお願いします。

(インタビュー/宮崎信行)

New Release
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8th Single「Luna」
(ABC・テレビ朝日系全国ネット ドラマ「松本清張 わるいやつら」主題歌)
2007年2月28日発売
「黒革の手帖」以来の米倉涼子主演・松本清張ドラマとの最強タッグの復活です!!今作は安良城紅シングル史上初の王道バラード曲!!もともとバラードには定評のあった彼女が、渾身の思いを込めて壮大な“愛”の歌を唄います。
初回盤特典!!紅&CECIL McBEE特製コラボシール封入
AVCD-31163 ¥1,260(tax in)
エイベックス・エンタテインメント株式会社

プロフィール
1986年3月30日生まれ。第8回全日本国民的美少女コンテストを経て、2004年「Harmony」でソロデビューし、これまでシングル7枚、アルバム2枚をリリース。NHK教育「新感覚☆キーワードで英会話」にレギュラー出演するなど、活躍の場を広げている。




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2006年11月28日

肉体派情熱芸人 パッション屋良

パッション屋良情熱アイランド沖縄を離れて十数年。体操のお兄さんは今日も熱い心に満ちたその胸を叩く。
「あ~い・あ・あ~い!えびぃばでぃパッション!!」



★体育教師を目指して東京へ
18歳で上京して、元々は体育教師を目指していました。教育実習にも行って、中学・高校の教員免許は持ってるんです。学生時代は陸上競技の投てき種目が専門でした。円盤投げでは、当時の沖縄ランキングで1位だったこともあるんです。ですから、体育教師になって沖縄に戻ったら、本格的に国体選手を目指して自分の競技力を高めながら、生徒を育成していけたらいいかな、と思っていました。まあ、気付いたら胸叩いてましたよね(笑)。ハンマー投げと円盤投げで培った大胸筋が今、ネタとして役に立っているんです。



パッション屋良★芸人になったきっかけは?
ちょっと遡ると、小学生の頃に、面白い奴が人生得するんじゃないかなと気が付いたんですね。勉強やスポーツが出来るよりもラッキーな感じで、クラスの人気者だったり、一目置かれるような存在になれるなと。高校の時には、「面白い奴が一番偉いんだ」みたいな雰囲気があったんです。生徒会長も面白い奴じゃないと駄目で、ある先輩は立候補演説でのネタが滑って落選しました(笑)。生徒会活動をやりたい友人が、「僕はきっと落ちるけど、屋良クンなら受かる。君が会長になれば、僕が側近として活動出来るから立候補してくれないか」と持ちかけてきたんです。面白そうだな、ネタも出来るし(笑)、と思って立候補したら、当選したんです。そうしたら、生徒会長として挨拶する度に、皆が期待するんです。今回はどんなネタだろうって。僕もその期待に応えなきゃいけない。そんなことで、人を笑わせる快感に目覚めて、これってすごいな、気持ちいいなと感じたんです。それでも、芸人になろうとまでは思っていなかったんですが、東京に来たのがお笑いブームが始まった頃で、TV局も多いし、ライブも毎日のようにやっている。それで、「ああ、やっぱり一回はやってみたい」と思うようになって。どうせ沖縄から出て来たのなら、結果はどうあれ一度は挑戦してみないと。そこから、お笑いを本格的にやってみようと決めたんです。

★パッション屋良の誕生
幼馴染みが、今の事務所に居たこともあって、「サミット75」というコンビを結成したんです。名護でサミット(先進国首脳会議)があった2000年でした。75は「ナゴ:名護」です。4年間程続いた後、解散して「パッション屋良」が誕生しました。ピン芸人として、まずは芸名を考えたんですが、ブルーハーツの歌にある「情熱の薔薇」をもじって「情熱の屋良」。実は2、3分で決めたんですけど、本人もピン芸人として何が出来るかわからなかったし、まさかそのままここまでくるとは。「ヘラクレス屋良」も候補にしたんですが、見た目そのままだし、そこからイメージも膨らまないので。姓名判断的にはそっちの方が良かったらしいんですけど(笑)。
本名が沖縄県の復帰後初代知事・屋良朝苗先生と同じなのは、子供の頃はコンプレックスだったですね。「チョウビョウ」って響きもヘンテコな気がして。でも、今となっては、ちょっとオイシイかなと。

★沖縄が恋しくなったりしませんか?
 最近は東京でも沖縄料理の店も多いですし、居酒屋さんでも泡盛がメニューにあったり、身近過ぎるくらいですよね。でも、豚料理、ラフテーとかは時々恋しくなったりしますね。
沖縄には、今年は仕事で5回も行っているんですけど、プライベートでは帰る機会はなかなか無いですね。でも、那覇空港が実家みたいなもんですから(笑)、着いたらホッとしますね。今は出演しているCMが沖縄で流れているので、お年寄りまで顔を覚えてくれているようで。この間も、58号でロケをしていたときに、通る人が皆、手を振ってくれたり、胸を叩く仕種をしてくれたりしたのは、とても嬉しかったですね。今度は是非ともオリオンビールのCMに出たいですね。プロテイン味とか(笑)。

★肉体派芸人として活躍中ですが、今後の目標は?
僕の中では、肉体系というよりは情熱系で(笑)。
お笑いだけにこだわらず、必要とされるところがあれば、いろんな事に挑戦していきたいです。尊敬する芸人さんはたくさんいますけど、同じ事務所の先輩に出川哲朗さんがいますので、自分のポジションを持ってずっと一線で活躍出来ている方としては、憧れます。「あいつを入れておけば成り立つ」というような、必要とされる役回りで、長く続けられるようなタレントになっていきたいなと思っています。




パッション屋良★沖縄の読者に向けて情熱的なメッセージを
 みんなも情熱的に心と体を鍛えてほしいんだね!情熱アイランドの情熱的な陽射しを浴びたウチナンチュなら、どんなところでも必ず奮起出来るんだね!情熱的な仕事を終えたら、そうだね、プロテイン…じゃなくて、オリオンビールを片手に「今日もがんばったな」と言えるような、情熱的な毎日を送っていけるといいんだね!!

★パッション屋良の情熱的な日常が垣間見える!必見のブログ。
「パッションのでっかい独り言!!」
マセキタレントブログ




プロフィール
1976年7月23日生まれ。名護市出身。マセキ芸能社所属。身長180cm、体重86kg。
体操のお兄さんに扮した熱いキャラクターによって、「笑いの金メダル」「爆笑オンエアバトル」などで頭角を現し、現在活躍中。国士舘大学体育学部卒業で、体育教師とともに図書館司書の資格も持っている。

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2006年09月28日

西表島の船浮出身のシンガーソングライター池田卓。

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初主演映画では沖縄の歌謡界の偉人宮良長包を演じ、自然体の演技力が高く評価され、
マルチぶりを発揮。
大自然のなかで育ったピュアな感性がさらにキラキラ輝きだした。

歌手になるきっかけは?

生まれ育ったのが船浮という人口50人位の小さな集落で、学校では同級生がいなくて、結構一人で遊ぶことも多かったんですよ。もちろん、川でエビやうなぎを獲ったり、海にいって遊んだり、山へ行ったりもしましたけど、一人の時や雨の日などは家にあった三線やギター、ピアノなどを自己流でしたけど弾いてましたね。楽器は一番のいい遊び相手でした。でも中学からは野球にどっぷり、さらに高校は本島の方に出てきて野球中心の生活で、すっかり音楽から遠ざかった生活をしてたんです。本気でプロを目指していましたからね。でもプロは無理だと、野球をあきらめてから再び楽器を持った時に、やっぱり音楽はいいなと思ったんです。それからアルバイトをしながら曲を作って三線一本でライブ活動を始めたんですよ。そしたらデビューシングル「島の人よ」が天気予報のBGMに使われて、いろいろ声が掛かるようになったんです、お陰さまでオリオンビアフェストにも何度も呼んでもらってます。今年も八重山のビアフェストに行きました。

曲づくりはどのように?
何かでインスピレーションが湧くとかそういうこともなく(笑)、詩が先か曲が先とかもなく、最初は鼻唄で出てくるような感じ。テーマさえ決めてしまえば結構でてきたりするんですよ。だから、最初の頃は島の唄ばかりでした。でも、最近では日常の中で生まれてくる感情を入れながら作ってます。曲が出来なくて苦しい時もたまにはありますが、楽しいことの方が多いですね。特にノルマみたいなものがあるわけじゃないので、自然に湧きあがってくるのを待ちます。ただ、毎月ライブをやっているので、同じ歌ばかり唄うわけにもいかないし、新曲を期待してくださる方のためにもそれなりに頑張ってますよ。(笑)

映画「えんどうの花」主演はいかがでした?
最初は絶対ムリってお断りしたんです。演技もしたことないし、スケジュールを2〜3か月押さえるという話だったので、歌の仕事ができないということもあって。でもさらにオファーがあって、それでもお断りしたんですが、考えてみたら、「今しかできないかも」って、逆に思えてきて、引き受けようと思ったんです。演技は心配していたんですが、監督から「宮良長包先生は、いつもニコニコしていて、歌が好きな人だったから、あなたはそのままでいいから」と言ってくれたので、意外とスムーズにいったんです。先生のことを知り、やってるうちにテンションも上がって自分からのめりこんでいきましたね。
終わった時は本当にやって良かったなと思いました。3回も声を掛けてくれたことに感謝しています。いろんな出会いもあったし、新しい環境に飛び込んでいくのはとてもいいことだと思いましたね。

八重山の偉大な先輩を演じた感想は?
長包先生は八重山民謡を深く勉強されていて、それを演じた僕も又、同じように勉強でき、新しく学んだことがいっぱいありました。そのことで民謡に対する姿勢が変わったというか、もっともっと勉強したいなと思うようになりました。これからの曲づくりに影響することもあると思いますね。


歌手で、俳優で、もう、島の有名人ですね。
島では名前だけが知られるようになってもダメなんですよ。魚をどれだけ獲れるかとか、そういうことが大切なんです。僕なんか全然ペーペーですよ(笑)。

今後の活動は?
島から出てきていろんなチャンスをいただいて本当にすごく光栄です。だからもし、今後も望まれたら応えていきたい、少なくとも挑戦はしたいですね。でももう、俳優の仕事はこないかな(笑)。とにかく本業の歌を中心にその時々を一生懸命にやっていきたいですね。

最新のアルバム「イダティーチの風」は、これまでになく軽快なサウンドを聞かせてくれる一枚。風を感じるドライブのお伴にぴったり。
「イダティーチの風」2500円
発売元:南ぬ風レーベル

プロフィール
1979年西表島船浮生まれ。小学生の頃から八重山民謡を始める。中学、高校は野球に没頭。沖縄水産高校の投手として活躍。19歳の夏、島の芸能祭に参加し、本格的に音楽活動開始。2000年10月「島の人よ」をリリース。現在沖縄を拠点にライブ、祭り、イベントなど全国で活動。初主演映画「えんどうの花」は只今、全国各地で上映中。

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2006年04月07日

YOKANGデザイナー 山内カンナ

目指すは年齢関係なくカッコイイから着たいと思う紅型。
運命的に始まった服づくりはナチュラルでありながら大胆。
沖縄の自然と新しい文化の香りがする。
なぜ、紅型を取り入れた服づくりを?
母が紅型を取り入れた洋服のオートクチュールをしていたこともあって、小さい頃から紅型を見て育ったので紅型は好きでしたね。でも、紅型染めを文化として着るんじゃなくて、カッコよくおしゃれに着るにはどうしたらいいんだろうとずっと私なりに考えていたんですね。そんなこともあって主人の誕生日にありものの型を使ってTシャツを紅型染めにして、プレゼントしたんです。そしたら、「カッコイイ、Tシャツ自体にパワーがあるし、魂を感じる」ととても喜んでくれたんですよ。その頃はちょうど結婚したのをキッカケに母のところから独立して夫婦でやっていこうという時期だったので、「じゃ、これやってみる?」といった感じで、始めたんです。でも、一番の問題はコスト、どうやったら半分くらいの価格にできるのか、そうやって辿りついたのがエアブラシによる型染めで、それがスタートになったんです。

YOKANGとは?
YOKANGを立ち上げたのがエアブラシの型染めをやってみようと思ったのが2001年の2月で、それがカタチになったのが5月、その染め上がりの日にたまたまあるメジャーなセレクトショップのバイヤーさんが織り物をしている友人のところに来ていて、面白いTシャツを探しているというんで、私たちを紹介してくれたんです。まだ、ちゃんとアトリエもない頃ですから。私もよくわからないまま、お茶でも出したらいいかしらなんて思ってたら、そのバイヤーさんが、いきなり契約しましょうということになって、これを何枚、って次々にきめていくんです。だから、え〜どうしたらいいんでしょうって言ったら、「まずは、ブランド名から決めなさい」って(笑)。それで、苦しまぎれに二人の名前を足して、YOKANGになったんです。そのバイヤーさんには、いろいろ教えてもらっちゃいました。

YOKANGの噂は東京経由で沖縄へ?
そうですね。最初の商品がそういうなりゆきでしたから、また、それと同時進行で、東京のビッグサイトで大きな展示会があって、応募したら受かっちゃって展示会に参加したんですね。その時に5人のバイヤーの方に声をかけていただいて契約、それで、雑誌に載ったりすることが多くなって、沖縄の方が知るようになったという感じですね。とにかくすごい勢いで事が進んでいったんです。運命的なものを感じましたね。

服づくりで意識していること
デザインもそうですが、テキスタイルが大事なので彼と二人で、よく話し合い、なるべく沖縄にちなんだ柄を探すようにしています。ブーゲンビリアやデイゴは私も大好きな柄ですね。でも、そろそろ限界かも(笑)。そんな時はヤンバルに行って、面白い花を見つけたりするんですよ、私たち夫婦は自然がないと生きていけないタイプなんです。そろそろ行きたいな〜。

YOKANGの服はどこで手に入りますか
私たちは直接販売していないんですね、今、全国で40〜50くらいのショップや会社と契約しています。県内ではホテルなども合わせて10ヶ所、去年、パリの展示会にも参加して、その時に、コペンハーゲンとロンドンのショップと契約したんですよ。だから、ロンドンでYOKANGの服が買えちゃうんです。

写真:2006年春夏コレクションで人気の孔雀の羽を大胆にあしらった服。

これからのテーマ
今やっているのはエアブラシによる型染め、そのルーツである紅型が気になりだしている人がいると思うんです。バイヤーさんのなかにも本物を求める方もでてきています。だから、これからが、大切。もっとカッコイイ紅型の染め方を考えたり、もっとモダンに見せるためのデザインを追求することは私のライフワークになると思います。

[プロフィール]
山内カンナさんとご主人の仲村洋さんが2001年に立ち上げたブランドYOKANG。二人の感性響きあう服は、ビームスをはじめとするセレクトショップや楽天のネットショッピングなどで販売。2004年ヨーロッパへ進出、沖縄発のクリエイティビティ溢れる作品に大きな期待が寄せられている。現在、ホームページ作成中。お楽しみに

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2006年01月05日

ミュージカル俳優・歌手高良結香


楽しそうにおしゃべりしながらケラケラと弾む声で笑う元気溢れる女の子が、舞台に立つとその小さな体からあふれるパワーで観客を魅了する女優・高良結香へと変身。魂を込めた歌声、踊り、演技、人を惹きつけ、心をとらえる。

ブロードウエイが目覚めさせた女優魂。





オーディションでは大きい人の中で埋もれることもしばしば、でも無理矢理、前に行って踊ったりはしない、後ろにいても自分自身をだせると信じているから。

いきなりブロードウエイでデビュー。そのきっかけは?
私、3歳からバレエをやっていて、ダンスが大好きだったんです。それで、ダンスの勉強がしたいなと思って、ニューヨークへ行ったんですね。だからミュージカルのことは全然頭にないし、舞台を見ても、話しているのに急に歌いだしたりして、「ふしぜん〜」とかって思ってたんですよ(笑)。でも、ダンスだけで食べていくのは難しいということもあって、一度、ミュージカルのオーディションにチャレンジしてみようと思ったんです。そしたら、ちょうどフラワードラムソングのアジア人のオーディションがあって。その時の課題が、私が小さい頃から大好きなサウンドオブミュージックの曲を作った人の歌だったんです。よしっ、それなら歌える、絶対負けないと思って16小節をハートを込めて歌えるようにして、そしたら合格しちゃったんです。それがミュージカルの道に進むことになったキッカケ。それまで歌はカラオケしか歌ったことなかったのに。初めてのミュージカルのオーディションで受かっちゃったんです。私ってラッキーですよね。それに、やってみると私に合ってたみたい(笑)。歌って、踊って、演技をして、全部の表現が入っているので面白い。今はミュージカル大好き(笑)。

言葉の苦労やカルチャーショックは?
私はずっとアメリカンスクールにいっていたので、言葉は不自由しなかったし、アメリカで勉強するのも抵抗なく当たり前な感じ。ニューヨークも怖いという感じは全然なくて、世界のベストが集まる場所だと思っていたんです。だから早くそれらに会いたいとか、触れたいとかそんな好奇心の方が強くて、あれこれ考えてる余裕はなかった。ハートはファイヤーでしたからね(笑)。

ニューヨークでの生活は?
毎日オーディションです。一日に2つか3つくらい、朝はあっち、昼はこっちみたいな感じ。舞台がある時でもオーディションは必ず受けますね。以前に、ブロードウエイの舞台と他の舞台と5つぐらいかけもちになったことがあって、5つの役と曲が頭をぐるぐる駆け回って、眠れなくなったことがありましたよ。

ニューヨークに来て変わったことは?
あのテロを体験して人生観が変わりましたね。それまでは、沖縄から一人で出てきて、負けず嫌いでガージューで、仕事や自分のことだけを考えていたんですけど、テロを経験してから大切なものの順番が入れ替わりました。家族や友人、自分が毎朝目覚めて健康でいられることとかに。だから、余裕がある時は沖縄に帰るし、最近は沖縄での仕事も増え、さらに帰って来れてラッキーですね。みんな行ったり来たり大変ねっていうけど、飛行機に乗ってる時間も曲づくりをしたり、私にとっては貴重な時間なんです。ニューヨークでも沖縄でもバタバタなので。

これからどうなりたい?
なるがままに(笑)。ずっとこんな感じがいいんじゃないですかね。ニューヨークの俳優の中で、その仕事だけでごはんが食べられるのってたった2%なんだそうです。その中に入っているというのはありがたいことで、いつまでもそうありたいし、ニューヨークと沖縄をイチムドゥヤーするのがベストかな。どちらも私にとって必要な場所なので。


NYと沖縄を行き来する飛行機の中で作ったという曲「今なら素直になれるよ」は高良レコードで好評発売中。爽やかなメロディラインとのびやかな声に耳を傾けて。

プロフィール
那覇市出身。1998年NYへ。ダンスの修行をしつつ2001年初めてミュージカルのオーディションを受け、合格。いきなりブロードウエイで主役までをこなす女優へと成長。代表作には「マンマミーア」「太平洋序曲」…など。
1月8日桜坂劇場でライブ開催。本場のミュージカルスターの舞台をその目と耳で確かめよう。 (桜坂劇場 098-860-9555)

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2005年08月15日

沖縄ポップスバンド 琉球チムドン楽団 藤木勇人さん ボブ石原さん

ド派手な衣装に身を包み、オリジナルの楽器を携え、笑いあり、涙あり、社会風刺も盛り込みつつ、独自の感性とスタイルで我が道をゆく「琉球チムドン」。それぞれの道を歩んできた7人の異色のメンバーを集め、見た事のないエンターテイメントを企てる謎?の大ボス二人にインタビュー。

● なぜに、チンドン?
琉球チムドン楽団ボブ この人がチンドンのフェスティバルの司会をして、興奮して帰ってきてチンドンやろうって。絶対、面白いことができるからって、やろう、やろうとけしかけたんだよね(笑)。
藤木 チンドンの発祥地である佐世保で全国からチンドン屋が集まるイベントがあって、それを見ていて、沖縄音楽とチンドンって絶対に合うなと思ったわけ、そして沖縄のことを色々入れていったらすごく面白いことができるんじゃないかと思って、帰ってきてすぐにボブに話したわけ。そしたら、すぐ乗ってきて、やろうということになったんですよ。
ボブ 実は、ディアマンテスやっている頃から夢があって、それが「ねり歩き」。スカバンドをつくって、5~6人のブラスバンドで、PAもいらない、とにかくねり歩きながら演奏してみたかったのね。でも僕、唯一、管楽器ができないわけよ(笑)、それで、ずっとくすぶっていたんだけど、彼がその話をもってきて、そうか、チンドンならできるなと。ただ、チンドンって、インストルメンタルじゃない。でも、それじゃつまんない、僕たちは歌をフィーチャーすることで意味があるってことで、ランドセル型の特注スピーカーを作って、外で歌う時にはそれを背負って歌を歌うことにしたんですよ。
藤木 チムドンと書いてチンドン楽団と読ませるんですが、いわゆるチンドンと一緒でねり歩きだけと思ってらっしゃる方もいらっしゃると思いますが、あくまでもチンドン風の沖縄ポっプスあるいはコミックバンドという設定で、ねり歩きあり、ステージあり、ジョークあり、伝統の曲あり、オリジナルの曲ありッていう感じでやってるので、ステージがないとねり歩かん、ステージで歌わさんとねり歩かんぞーという、わがままなチンドンなんです(笑)。

● メンバーはどのように?
ボブ どの世界にもスペシ夋リストがいるでしょ、それが、たまたま知り合いで「やらない?やらない?」って声を掛けたら、すんなりOKということで。まっ、基本的には笑顔が素敵な人かな。カッコつけやーではしょうがないからね、いい笑顔で面白がってくれる人たちを選んだつもり。
藤木 みんな、それぞれ仕事を持っているから仕事を優先させつつ、月に3回くらいライブができたらいいなと思っているんですよ。

ソウルフルな歌と笑いでチムドンドン!!

● 曲づくりは?
ボブ 主に僕と藤木で作ってます。世の中のいろんなことを面白おかしく、ブラックジョーク仕立てにしたりして。
藤木 沖縄のもともとある音楽をチンドン風にアレンジしたり、メンバーも曲づくりに参加したり、コントを織りまぜてみたり、なんかさー、みんな、お笑いの経験なんてないのに、勝手にハジけているからね、潜在能力かねー(笑)。

● これからの展開は?
藤木 今のところ、県外で呼ばれることが多いんですよ、だから、県内でもっと活動の場を増やしたい。だから、この夏のJTAプレゼンツ琉球ロマン紀行は半年間に渡って定期でライブができるのでとてもありがたい、いいチャンスなんです。
ボブ とにかく存在を知ってもらうこと。さらに県内外で精力的に活動して、2・3年後には海外にも行けるくらい実力をつけたいですね。そして、たくさんの人にライブ見て楽しんで欲しい。頑張りますよ!

※琉球ロマン紀行のライブはPARAISOで見る事ができます。


【プロフィール】
藤木勇人:「ちゅらさん」でもお馴染み、一人ゆんたく芝居で独自の芝居を展開中。ボブ石原とともに琉チン結成。総合プロデューサー兼団長。
ボブ石原:ディアマンテス元リーダー。藤木とともに芝居で全国をまわるなど役者としても活躍中。音楽プロデューサー兼隊長を担い、楽曲のほとんどを手掛ける。

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2005年01月05日

タレント ガレッジセール(川田広樹さん・照屋年之さん)

ゴリと川田でお馴染みのガレッジセール。
6本のレギュラー番組に、「ミッキー」の大ヒット、快進撃を続ける超売れっ子の2人がオリオンビールのCMに戻ってきた!
アロマトーン以来2度目のCM出演のガレッジに仕事に懸ける情熱と沖縄への思いを聞いちゃったでござるよ。

● オリオンCM出演の感想は?
オリオンビールのCMゴリ 小さい頃から見てきたCMに自分が出てるなんて不思議ですよね。それはこの世界入ってからずっと思っていることなんですけど、小さい頃から見ていた「笑っていいとも」のタモリさんの横に自分が立ってるなんて、時々自分でもビックリするし、それと一緒ですね。りんけんバンドの「ありっ、あり、ありがとう」なんていうのを見て、唄ったりしていたのに、自分達がCMするほうになっちゃて、とても不思議であると同時に、もちろん喜びも感じてます。
川田 帰ったら必ずオリオン飲んでますからね、CMに出れるっていうのはうれしいですよ。地元の友達や親戚が「出てるねっ」て電話してきたりしますからね。全国版のCMより近い感じがするんじゃないですか。僕らにしてもオリオンは地元って感じで、特別ですから。

● オリオンを飲む機会はある?
ゴリ 沖縄帰ったら確実にオリオンビールを飲みますね。こっちでも沖縄料理店に行ったら飲みますよ。でも、やっぱり地元で飲んだ方が、ぜったいに美味しいんですよ。だから、ここで美味しいって飲んでる人を見ると、沖縄で飲むとこんなもんじゃね〜ぞと思わず教えてあげたくなりますね。それと、クラブとか居酒屋とか、うるさいところではなくて、海に行って波の音をBGMに飲むとどれだけ贅沢な気持ちになれるかっていうことをぜひ、体験して欲しいですね。
川田 ほんとにそうだよね、海はいいよ。俺なんかも帰ったら海でしか飲まないからね。地元の仲間と一緒に。
ゴリ そういうひと時って癒されるよね。友達っていいよなと思うけど、ただね、仕事で帰ってきたりするとちょっとね、特にライブなんか最悪ですよ!みんなホントにひどい。俺ら舞台で一生懸命やってるのに、それぞれが舞台に話しかけてくるんですよ(笑)、なにせ、ちゃんと、見てくれませんから。
川田 空気感、独特なんですよ。友達や知り合いが多いってことでしょうけど。みんなが身内的な感じ。俺達2人も東京にいるときよりボーっとした感じになるんですよ。周りの空気がそうさせているんじゃないかと思うんですけどね。決して、気を抜いてるわけじゃなくて(笑)。

ガレッジがひとまわり大きくなって、オリオンに帰ってきた!!

● 来年結成10周年を迎えるそうですが、今後の抱負は?
ゴリ っていっても、まだ修行の身ですからね、まだまだ、やってないことがいっぱいあるし、とにかくガムシャラにやっていくのみです。たくさん経験を積んで、力がついた上で初めて何か見えるようになる。そしたら具体的にこんなことやりたいっていうのが出てくるんじゃないかと思っています。今は、ありがたいことに、チャンスをたくさん与えてもらっているので、楽しくのびのびと頑張っていきますよ。

● 読者へのメッセージをお願いします。
川田 僕の友達に多いんだけど、意識不明になるまで飲むヤツっているんだよね。一応そういう飲み会は最高だけど(笑)、ま、飲むのはほどほどに。道ばたや海岸で寝ないように、っていうことで。
ゴリ 沖縄から出てきたすごいヤツらっていわれるようにこれからも頑張っていくので、皆さん応援よろしくお願いします。それから、オリオンビールじゃんじゃん送ってもらって構いませんのでということをオリオンビールさんへのメッセージにします(笑)。

※ゴリにビールを独り占めされて「なんでよ〜」と川田の久々に飛び出すウチナ〜アクセントがいい感じ。撮影は東京で行われました。

【プロフィール】
川田:川田広樹、1973年2月1日生まれ、ゴリ:照屋年之1972年5月22日生まれ。ともに那覇市出身、中学校の同級生の二人は1995年5月ガレッジセール結成、同年7月初舞台以来、めきめき頭角を現し、現在、「水10!〜ワンナイR&R〜」「笑っていいとも」などレギュラー6本をもち、第一線で活躍中!

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2004年09月02日

牧場経営 田中英信 さん

田中さんの元気な笑顔の写真
経験もないまま、飛び込んだ農業の世界。北海道、カナダ、ヨーロッパといろんな農業を見て周り、やがてヤギの酪農をしたいとヤギの飼育の盛んな沖縄へ。石垣島の牧場で働きながらヤギを飼い始め、独立して3年、厳しい現実に直面しながらも明るく突き進む。

● 若い頃から農業に興味が?

いやあ、若い頃はこれでも役者を目指して演劇をやっていたんですよ。でも周りがすごい人ばっかりで、この世界じゃ、食って行けないと、きっぱりあきらめたんです。それで、今までと全然違うことをやってみたくて、長野の農家で住み込みで働き始めたんですよ。まるで分からないことだらけできつかったんですが、すごく実りがあって、心も身体も、ものすごく元気になったんですよ。それで、農業で飯くっていけたらいいなと、漠然と。そしたら、いろんな農業を見たくなって、北海道へ。そこで出会ったのが酪農だったんです。やってみると、自分は野菜よりも動物相手のほうが向いてるなと感じたんですね、感情移入しやすいんです。僕の言葉も聞いてくれてる気がするし、動物たちが言おうとすることもわかるような気がしたんですよ。動物相手は面白いと、その時、酪農をやろうと決めましたね。

● どうして沖縄で酪農を?

int_001.jpg 北海道でそのまま酪農やろうかとも思ったんですが大規模な北海道の農業は自分の身の丈にあわないような気もしたりして。一度、伝統のある本場の酪農を見ようとヨーロッパへ気分転換も兼ねて旅行に出かけたんです。旅行といってもチーズづくりをしている農家を訪ねて、働かせてくれと頼み込んで学ぶための旅ですね。何軒か働かせてもらったんですが、フランスでヤギのチーズを作っている農家があって、それがとても面白かったんですよ。それで夢中になっちゃって。でも、そんなことをしているうちにあちらで30才になっちゃったんですよ。わあ、もうそろそろ、自分の道を決めないと手遅れになるかもしれないと思って日本に帰ってきたんです。 北海道へ戻るという手もあったんですが、ヤギの酪農が忘れられなくて日本で一番ヤギが飼われている沖縄へ行ってみようと思って、来てみたら、あまりにも本土と文化も気候も違うので、旅じゃ答えが出せない。そこで、仕事を紹介してもらって一年間那覇に住んでみたんです。そのときの職場が農業試験場というところで、ヤギをやってみたいと周りの人に相談したら、離島がいいんじゃないかということになって、石垣にやってきたというわけなんです。まあ、ここのほうが比較的土地も手に入りやすいのかなという思いもあったりしたもんですから。

●牧場の切り盛りは?

一人なので、牛とヤギの世話と、牛乳の売り込みの営業、エサの調達、雑用もろもろ全部やらなくてはいけないんです。特に最近は、島に大きな資本の乳業の進出もあったりして、厳しい状況なんです。だから、レストランなどに直接売り込みに行ったりして、馴れない営業で今、苦労してますね。それと、やっぱり動物相手なので休みがないということ。独立して3年、ほんとに今それが身にしみてますね。一人だからどうにも動きがとれない。ちょっと那覇までっていうのも難しい。一緒に連れて行く訳にもいかないしね(笑)

●将来的には?

土地を増やして加工施設を作りたいですね、早くチーズやヨーグルトづくりを始めたいんです。いまは規模が小さすぎて許可がおりないですよ。最近、看板をあげたんですが、これからは作るだけじゃなく、人とどう接触していくかがぼくが生き残る道なのかなあなんて思ってます。とにかく今勉強中です。それから人生のパートナーとなるお嫁さんも探したいなと(笑)。とにかくやらなくちゃいけないことがいっぱいで、いくつ身体があっても足りないという感じです。

【お問い合わせ】

ヤギとジャージーの牧場「まあじゅん」石垣市登野城219 Tel0980-83-8843 E-mail hide.t@aioros.ocn.ne.jp

【プロフィール】

1967年生まれ 福岡県出身 大学時代は演劇に没頭するが、きっぱりあきらめ、農業の世界へ。長野、北海道、カナダ、スイス、フランスでの修行を経て、ヤギのチーズづくりを夢見て沖縄へ。石垣の牧場で働き、2001年独立。

投稿者 breakjp : 19:06 | コメント (0)