2004年09月02日
仲宗根豊見親
宮古を統一した英雄、仲宗根豊見親
1390年、中山王、察度に拝謁した眞佐久は、王命により宮古島主長の任を授けられる。帰島した眞佐久は島民から、与那覇勢頭豊見親と称され、実質的権力者である目黒盛豊見親と対立する形となり、島内を分割した二大勢力が誕生することになる。
この二大勢力を統合し、再び宮古島の統一政権を打ち立てるのが、目黒盛豊見親の五代目(玄孫)の仲宗根豊見親である。幼名を空広と称した仲宗根豊見親は、15世紀中半、双生児の一人として生まれたとされているが、不思議なことに生没年は不詳である。空広は幼い頃、与那覇勢頭豊見親の孫にあたる大立大殿恵幹と遭遇し、その卓越した才能を認められる。大立大殿は、後見役として空広の才能を磨き上げ片腕として登用した。 与那覇勢頭側の後継者、大立大殿の長子能知伝盛大親が病死すると、人々の期待感は空広へと集中し、空広はその実力名声ともに高まり政治基盤を強固にしていった。
一四七四年、空広は能知伝盛の死後、18才の時に琉球国を訪ね、第二尚家の祖、尚円に拝謁し宮古島の首長を拝命したと伝えられる。
その陰には、大立大殿の助力があったと考えられ、空広は仲宗根豊見親と称され、ここに二大勢力の統一が空広の手で達成された。
1500年、仲宗根豊見親の実力者としての能力を試される大事件「オヤケアカハチの乱」が勃発した。
首里王府軍の先鋒をつとめ、乱を平定した仲宗根は尚真を頂点とする琉球王国の体制の一翼を担い、以降、宮古島の支配者として君臨し、水の確保、下地橋道に代表される土木工事、行政、税制等を整備し、宮古を代表する英傑として記録されている。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2004年09月02日 20:19