2005年01月05日
ベッテルハイム博士と仲地紀仁(なかちきじん)
日本本土より早く牛痘法を完成した医師
疱瘡と呼ばれた天然痘は、古くは奈良時代に伝来し、死亡率3〜5割という恐ろしい病気とされていた。その原因が分からず、天然に発生するところからその名が付いたといわれている。治療法は、紀元前から人痘種痘法が用いられ、中国では、1,000年前から行なわれていた。
しかし、日本では疱瘡神への祈祷、源為朝や金太郎の絵をまじないとした原始的な治療しか行なわれていなかった。琉球国では、病原地のインドから各国を経て、18世紀の初期に伝染し、国内の僧侶は祈願によってその害を防ごうとしたと記録されている。日本国でも、ようやく江戸時代に中国式治療法を移入して治療にあたったが打つ術がないというのが実状であった。
当時、琉球国は、鎖国令が布かれていた日本国の中で、唯一異国との交流が可能な地域であった。進貢船をあやつり、中国、東南アジア、朝鮮国との交易で王国を維持していたのである。琉球国は異国の文化、文明をとりいれながら独自の王朝文化を築いていた。その意味では、異国の先進文化、情報の集積地域であった。
異国の人々も鎖国の日本を避け、まず、琉球で日本国の情報を収集したうえで目的地、日本へと向かった。また、琉球は異国の渡来船に対して、水、食糧、薪などを無料で提供しこれを迎えたので、東シナ海の中継地点としての役割を果たしていた。
1846年、イギリスから布教を目的にベッテルハイム博士が来琉した。彼は、キリスト教が禁じられている日本に直接上陸するより琉球での布教を考え、妻、子供二人を伴って琉球国に滞在することを決意したのである。
医師でもあったベッテルハイムは、那覇の町で貧困な人々の治療に当たり人々に親しまれるようになった。「ナンミンヌガンチョー」と呼ばれたベッテルハイムは琉球語を修得し、那覇市内の医師を訪ねて歓談し、西洋医学の知識を伝授しようとした。その一人に仲地紀仁がいた。仲地は、1789年、泊の医学者の長男として誕生し、家伝の医学を修得し、医療を天職として志していた。26才の時、中国に渡り内科、眼科を学び、帰国の時、遭難で漂着した薩摩でさらに外科を覚えて帰国した。卓越した彼の医術は、中国の漂流者の病を完治し、王府から表彰された。
医術の腕を認められた仲地は、宮古島の医師として二度にわたり派遣される。那覇に帰った仲地は、泊と那覇で発生した天然痘の治療に、中国で体得した人痘治療を用いて医療奉仕を行い、再度、王府から褒賞を受けた。ベッテルハイムは、仲地を見込んで最も優れた牛痘種痘を伝授することになる。西洋人との交流を禁じていた薩摩の目をのがれて、仲地は波之上の洞窟の中で教えを受けた。仲地は苦心の末、膿疱を持つ牛を入手し一八四八年、牛痘種痘法を完成させた。この後、1849年、長崎で蘭医モーニッケが、鍋島藩の姫に接種したのが日本各地に広がっていったのである。
投稿者 breakjp : 2005年01月05日 14:41