2005年08月10日
野国総官(のぐに そうかん)
琉球国の国力、人口を救った 野国総官
野国総官は、なぜ、生没年不詳になっているのか理由は不明だが、公式の記録には生没年不詳とある。しかし、伝えられる所によると一五六〇年、北谷間切野国村に生まれたとされている。野国とは村の名前であり、総官とは進貢船の総務部長という役職名である、
野国総官とは人名ではなく、現代で言えば、嘉手納町長という公職名と考えても良い。
唐名は、徐筆箕という。二十三才の頃、那覇久米村の総理唐栄司(村長)、徐徳宗の下で働いていた野国総官は、その学才を認められ徐筆箕という唐名をもらい、身分を保証される。徐という姓をもらう理由も、徐徳宗と野国村の関係なのか、その理由は定かではない。
しかし、野国総官は語学の才と、誠実な人格を認められ、久米出身でなければ就くことのできない進貢船総官の職に任じられ、四十五才の時に中国・明国の福州へと渡る。
時の国王、尚寧王は徐徳宗の推薦によって野国総官を、水夫の総監督にあたる総官職に任命したと伝えられている。
琉球の進貢使が福州、北京を往復する間、進貢船のスタ兊フは福州で半年間待機をするのが常であった。その間、琉球の人々は福州で、歌舞音曲、拳法、医学、等を習い、それを琉球に持ち帰ったのである。
ある日、野国総官は、中国人の琉球担当官に誘われて農家を訪問した。そこで栽培されている蕃藷(芋)を見て驚いた野国総官は、さらにそれが救荒作物であると説明を受けて天の声を聞いた思いがしたのである。
当時、琉球は農業に適している土地は限定され、米、麦、粟、豆、稗などを主食としていた。しかし、年数回訪れる台風による被害が大きく、救荒作物を必要としていた。
野国総官は終日、農場で栽培法を学び、持ち帰る方法として鉢植えの法まで考え、琉球国のために、万難を排して蕃藷を持ち帰った。
一六〇五年、野国総官は、持ち帰った蕃藷を全琉へ広める大志を徐徳宗に話し、了解を得て野国村へと帰還した。苗畑を広げ、頒布用の茎を生産し、野国総官は熱意を持って人々に奨励した。
しかし、滲み出る白い液の為に、有毒説なども生まれ、人々は当初、その普及に反対する者さえ出る始末であった。その時、蕃藷の噂を聞いて、首里王府の農業、食糧政策官の役職にあった儀間真常が、野国総官を訪れた。
土地、肥料を選ばず、高温に合う、水田の少ない、台風にも耐える蕃藷の特質を見抜いた野国総官と儀間真常は、琉球国の必需品であることを確認し、全力を傾注して普及させることを誓い合った。
二人の懸命な努力が実を結び、唐芋とよばれた蕃藷は琉球一円に広がった。唐芋は、以後の琉球の飢餓を減少させ、人々の命を救い、国力である琉球の人口を拡大させる作物として定着したのである。以後、唐芋は、日本全国に普及し、救荒作物、また焼酎の原料として現在に至っている。
投稿者 breakjp : 2005年08月10日 21:12