2006年01月04日
儀間 真常(ぎま しんじょう)
琉球国の産業開発者


儀間真常は、琉球国のみならず、日本国の人口、食糧等の難問解決にも貢献した、産業開発者として名を残している。
儀間は、一五五七年に誕生し一六四四年、当時としては珍しい、八十八才の高齢で世を去っている。時代背景としては、琉球の国難ともいう薩摩侵攻の時期に、儀間は働き盛りである五十三才を迎えていた。儀間の業績としてあげられるものは、一、唐芋の普及。一、木綿織りの普及。一、黒糖生産の普及。等があげられる。
唐芋は、一六〇五年に野国総官が福州から持ち帰ったもので、総官は、持ち帰った苗を郷里の野国村(嘉手納町)で栽培した。その頃、首里王府内の田地奉行であった儀間真常は、唐芋渡来の報を知ると、野国総官に会いに出かけたのである。
唐芋は、高温多湿を好み、台風にも強く、まさに琉球国にうってつけの作物だった。儀間は農業の実践家ではなく、むしろ政策官であった。一つの素材に付加価値をつけて、それを産業として成功させる産業開発者としての役割を儀間は持っていた。現代で言えば、プランナーと同じ発想の持ち主だったと思われる。儀間は、農業、食糧政策官として、唐芋の可能性に大きな期待を抱いた。薩摩への上納米により、琉球国の食糧事情は悪化しており、例年襲来する台風という天災の被害は、避けることの出来ない琉球の宿命であった。儀間の胸中には、この苦境を乗り越える切り札として、唐芋の存在が大きく浮かび上がったのである。儀間真常と野国総官の努力により、約二十年間の経過を経て、唐芋は主食として全琉に普及していった。その最大の効果は、人口の増加という現象になって現れていった。哲人宰相、蔡温は、この唐芋の普及によって琉球の人口は、百数十年の間に七~八万人から二十数万人になったと述べている。当時の国力は人口であり、労働力の増加につながっていった。島津藩もこの唐芋に関しては、徴税対象とは考えていなかったので、生産量は急激に伸び、各地には人口増に伴う新部落が、続々と誕生した。また、琉球の唐芋は、さまざまのルートで本土に上陸した。
一七三三年、天保の大飢饉は、全国で百万人近くの餓死者を出していた。この時に本土で普及していた琉球の唐芋は、日本国の食糧難を解決し、さらに各地の人口を増やしていく結果をもたらした。
一六〇九年、尚寧王とともに薩摩に連行された儀間は、三年間の滞在中、薩摩藩の木綿産業を調査し、木綿種を持ち帰り琉球国内に木綿産業を定着させた。また、一六二三年、儀間は、福州の黒糖製造法を導入し琉球の産業として確立させた。薩摩藩は、黒糖の莫大な利益を独占し、これを軍事力に変え、明治維新のリーダーへと成長していったのである。儀間真常が開発した琉球の産業は、琉球国内のみならず、日本史の激動、動乱期にも、大きな役割を果たしたといえる。
亀島 靖
(Kameshima Yasushi)
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1~3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2006年01月04日 00:38