沖縄生まれ沖縄育ち。南の楽園で生まれた爽やかなビール、オリオンビール。

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2006年04月07日

沖縄のラジオはここからはじまった。

コールサインも音楽もアメリカだった。

沖縄のラジオ黎明期から自作ラジオで親しみ、のち放送現場の第一線に関わっていった。現在もパーソナリティー(ナツメロ・ディスク・ドライブ)として活躍する琉球放送の仲地昌京氏に沖縄のラジオの歴史を当時のエピソードと共に語っていただいた。

RBC iRADIO 琉球放送 AM738KHz

昭和24年に米軍政府は、戦後初の住民向けの日本語放送局を具志川市(現・うるま市)栄野比に開局し、試験放送を実施した。
放送局名は「琉球の声」、戦後放送の第一声は、かきやで風をバックに「AKAR Ryukyu Radio Station こちらは、琉球放送局であります」であった。ただ当時、ラジオじたい普及しておらず、電気もままならない状況で、すぐに広がる事はなかった。
同局はアメリカの宣伝をするための放送だったので、米政府はラジオ資金を設けて、親子ラジオの有線放送として、県内各地に普及させていった。番組の内容は、75%がNHKの番組放送25%が米軍政府情報だった。ただ沖縄でラジオ放送を広めたのは、親子ラジオでこの功績は大きいと思います。
私が最初に務めた、極東放送(現・FM沖縄)では当時、クラシック中心の音楽を放送していた。
ポップスのレコードにはチョークで印され、かけると針の後が残るので、アメリカ人のチェッカーによく怒られていた。
後にはレコードの溝に金属で切り込みがいれられ、使用できなくなった。それぐらい制約が厳しかった。
2年ほど務めて、琉球放送がテレビ放送を開始するという事で誘われて琉球放送へ。
昭和30年に琉球放送の姉妹局としてKSBK(英語放送)が誕生した。
KSBKは、アメリカのDJ団体に加入していたので、アメリカのチャートを賑わす最新ポップスのレコードがリアルタイムに次からつぎへと入ってきた。向こうでリリースされてエアー便で2、3日で届くわけだから、米兵のみならず、沖縄の若者もKSBKに夢中になっていった。本土では3ケ月から6ケ月後のリリースだから当時沖縄のアメリカポップス情報は圧倒的に早かったよ。
KSBKは、沖縄の放送界にとっても当時、青春時代を過ごした人達にとっても、エポックメイキングなラジオ放送局だった。

投稿者 breakjp : 2006年04月07日 23:30

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