2006年09月28日
座喜味城(ざきみグスク)ものがたり
座喜味城は琉球三山時代の戦国の豪勇、護佐丸が1420年頃、約6年の歳月をかけて築いた城である。信長が1576年に築いた日本初の石垣の城、安土城より150年ほど前の古城となる。世界遺産に登録されているこの城の面積は、約2500坪ほどで、とりわけて大きな城とは言えないが、城造りの名人と言われた護佐丸が築城しただけあって、石垣の堅固さ、曲線の美しさ、また沖縄で最も古いと思われるアーチ型の石門がある。城は、読谷平野の中央に位置し、晴れた日には約30キロ離れた首里城と狼煙による交信が行われたとも言われている。護佐丸は、琉球史の中でも、武勇優れた勇将として名を残している数少ない武人である。北山王国の内乱から逃れて恩納・山田城に拠点を築いた先祖をもつ護佐丸は、武将の血を引く者として生を受けた。農民の出身である阿麻和利や、尚円金丸とは異なる地位、環境で成長することとなる。1416年、20代半ばの頃、山田城主となった護佐丸は、時の中山王尚巴志の旗の下に加わり、北山攻略の一翼を担うこととなる。尚巴志は、護佐丸の才能を認めていたとみえ、中山軍の先鋒をつとめさせる。今帰仁城攻略にめざましい活躍を発揮した護佐丸は、その手柄によって北山監主(代官)に抜擢され、6年もの間、北山の経営を任された。その間にも、座喜味城の築城を手がけている。今帰仁城の修復のなかで、護佐丸は城造りを独学で学んだものと思われる。尚巴志の命で、座喜味城に移封された護佐丸は、北山の陶工達を喜名に移住させ喜名焼きを興し、長浜の港を整備し海外との交易をてがけ東南アジアの織物等を輸入し、読谷山花織りを生み出している。単なる武将ではなく、経済人としての才覚も発揮している。しかし、尚巴志は、護佐丸の才能を警戒したかのように護佐丸の娘を政略結婚の人質として、七番目の王子尚泰久の妻としてもらい受けている。
護佐丸の娘も後に王妃となるが、その娘の王女・百度踏揚も又、同じ運命をたどるかのように、勝連城主阿麻和利の妻として政略結婚の犠牲となる。武将・護佐丸は、戦国時代の雄として名をはせるが、政治家としては尚巴志の意のままに扱われてしまう面がある。座喜味から中城に移るのも、護佐丸本人の意志ではなく、尚巴志の政略の結果である。尚巴志は、護佐丸が一定の地域で根を下ろし、勢力を張るのを恐れるかのように、今帰仁に6年、座喜味に10数年と、まるで将棋の駒のように護佐丸を移動させている。また、不思議なことに、座喜味には護佐丸に関する伝説、昔話が一つも残らないと言われているが、晩年に謀反人として討たれた護佐丸に関する記録が、王府の手によって除かれたままとも考えられる。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2006年09月28日 23:51