2007年03月10日
勝連城ものがたり その二

阿麻和利逆臣説には、数々の疑問点が浮かび上がってくる。護佐丸・阿麻和利の乱以外には逆臣阿麻和利像は存在しない。むしろ、オモロ(琉球王国時代の民衆が作った叙事詩、古謡)には、阿麻和利が勝連国領民にとって名君であり、彼によって勝連の国が栄えたと褒め称えている歌も残されている。幼い頃、虚弱体質だった阿麻和利は労働には携わらなかったが、頭脳明晰で、蜘蛛の巣を見て魚網を考案し、人々に教示したと伝えられる。屋良村(嘉手納町)出身の阿麻和利は三十代にもならぬ若さながら、知略を用いて勝連城主、暴君・茂知附按司を滅ぼし城主になったと伝わる。モウアシビ(村のレクリエーション)というイベントを作り、各村々に流行らせたのも阿麻和利と伝わる。これらの口承伝説からは、世に言う逆臣阿麻和利像とは全くちがったイメージが浮かび上がる。
当時、阿麻和利は、堺、博多等の大和商人達と交易を行う程のノウハウと、勝連国を運営する経営手腕の持ち主でもあった。また国力を蓄えつつも、領民とのコミュニケーションを大事にした若き領主像が想像される。
それ故に尚泰久王は娘を、阿麻和利に嫁がせたとも考えられる。若き英傑の常として阿麻和利は、将来、中央で名をあげたいとの野望を抱いた事は想像できる。だが阿麻和利の目の前には、中城湾をはさんで大和貿易のライバルである中城城の存在は、城主護佐丸とともに目障りであった。ましてや老将・護佐丸が歴戦の勇将として名をなし、近辺の按司の尊敬を一身に集めていたとするなら若き阿麻和利は動きを封じ込められた形であった。
ニュー・リーダー阿麻和利にとって、長老・護佐丸の存在は、たちはだかる壁のようなものであった。首里王府もまた、平和貿易の国策を進める上で争乱の火種になる武将の派閥作りを恐れていた。それは中山、北山の残党や各按司たちの不穏な動きである。王府はまだ磐石の体制とはいえず、万が一にも不満分子が護佐丸を担ぎ出すとすれば王国は、再び三山分裂の危機を迎えることにもなりかねなかった。護佐丸という影響力の強い武将が存在するだけでも首里王府には不安の材料であった。ここで王府と阿麻和利の政治目的が一致したとすれば、同じ行動が生まれることになる。両者にとって共通の脅威である護佐丸をのぞくことである。若き阿麻和利は王府の憂いを自分の手で取り除くことに、情熱を燃やしたことであろう。行動のキッカケは、首里王府からの提言によるものか、阿麻和利自身からの提案によるものかは定かではない。しかし阿麻和利は王府の旗を手にして官軍として護佐丸を攻略し目的を達成する。
尚泰久王が告げ口によって建国の元勲、しかも岳父の護佐丸を討つことは考えられず、しかも本人に対する調べも行われていない。護佐丸討伐には明らかに王府の政治目的が存在していた事が考えられる。尚泰久王は、岳父・護佐丸を除くのに、自分の手を汚したくなかった。又、尚泰久の側には重鎮、尚円金丸(後の第二尚氏の祖)がいたが、この天下の大乱に金丸はその動きを全く表に出していない。これは護佐丸、阿麻和利の乱の最大の謎と言える。王府がこの大乱のシナリオを書いたとすれば護佐丸も阿麻和利も政治の権謀術数の犠牲者だったと考えられる。護佐丸亡き後、実力者・阿麻和利も王府にとっては邪魔な存在だった。乱の後、護佐丸を大忠臣として讃えることで、逆に阿麻和利が逆臣とされ、王府の意図が水面下に隠されてしまった。阿麻和利は、政治に翻弄された悲運の風雲児だったともいえる。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2007年03月10日 12:50