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2007年06月06日

中城城ものがたり その一

12_1.jpg 中城城は、琉球王国戦国時代の豪勇・護佐丸が築城した古城とされている。幸い、第二次大戦の戦災をまぬがれ、その外壁などはほとんど原型を保存している名城である。
 護佐丸は、一四二〇年頃、座喜味城(読谷)を築いた後に、中城に移封され、一四四〇年頃に中城を改築したと伝わる。城は、護佐丸以前に誰が築城したかは、まだ解明されていないが、野面積みの時代の石垣跡から判断できるのは、一二〇〇年頃、浦添の英祖王の次男・中城按司の代の築城とも思われる。護佐丸が移住する二百年前に既に築城されていたことになる。この時の城主を先中城按司と呼び、護佐丸の移住によって糸満・真栄里城に移されることになる。
 護佐丸が増改築したのは、新城(ミーグシク)と称されている三の丸と、外壁、独特のアーチ門である。一八五三年、琉球を訪れたペリー提督一行は、中城城を調査し「その石造技術は賞賛すべきものであった。漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思われなかった」と記され、さらにエジプト形式とも評してその素晴らしさを称えている。

 護佐丸の生年は、未詳になっているが、尚巴志の長男、尚忠と同年の生まれと伝わっている。年譜をたどると、一三九一年、山田城(恩納)にて生誕。一四一六年・尚巴志の北山攻略に幕下として参戦するのが、二五才。座喜味城を築いて、居を移すのが三一才。一四二九年、尚巴志軍を率いて南山攻略を成すのが三八才。中城城に移封され、城主となるのが四九才。阿麻和利の謀計に図られ、自刃するのが一四五八年、六八才の時と思われる。
 護佐丸は、参戦においては必ず勝利を手中にし、尚巴志の統一王朝作りに大きな役割を果たしている。建国の元勲としての護佐丸の功績は、琉球国中に異を唱える者は皆無と言える武将であった。それほどの実績を誇る護佐丸が、なぜ、晩年に自刃するほどの運命をたどるのか、琉球史の大きな謎である。武人・護佐丸は、ある意味で政治の波に翻弄されている部分が多い。
 当時、琉球王国の最高権力者であり、すべての武将の人事権を掌握していた尚巴志は、なぜ、護佐丸の領土をめまぐるしく変遷して、移封しているのかも、大きな疑問点である。通説では、阿麻和利の権力が強大化するのを防ぐために中城城に移転させられたと伝えられる。しかし、この説も疑問が生じる。なぜならば、その時期、当の阿麻和利は十二、三才の童でしかない。よしんば、勝連国の茂知月按司の脅威を感じたとしても、尚巴志が勝連按司を滅ぼしてしまえば済む話である。
 護佐丸討伐の王府軍を派遣した尚泰久王は、なぜ、護佐丸謀反の阿麻和利説をうのみにし、妻の父・護佐丸の弁明をとりあげなかったのかも、疑問の一つである。中城と首里はわずか十キロの距離にあり、いつでも、護佐丸を召喚できたはずである。 
 第一尚王家に刃向かう逆臣として滅ぼされた護佐丸は、わずか十年余の後、なぜか、第二尚家の祖、金丸によって大忠臣として歴史の中によみがえってくる。 
 「護佐丸・阿麻和利の乱」も、勝利者の首里王府によって記録されたもので、護佐丸という人物に関しては、多くの謎につつまれている。ともあれ、護佐丸が琉球の戦国時代の鍵を握った英傑であることは、「謀反論」「大忠臣論」であることを問わず、疑いようもない人物であると言える。悲運な晩年を迎えた護佐丸は、琉球史の中では数少ない、庶民の英雄としても、伝説の中で生き続けている。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。

投稿者 breakjp : 2007年06月06日 15:03