2007年09月29日
中城城ものがたり その二
阿麻和利の率いる王府軍によって滅ぼされた護佐丸は 一四五八年には、謀反人の扱いを受けている。また、時の国王尚泰久の正夫人は、護佐丸の娘であった。そのため国王は、護佐丸の血を引いていると言う理由で、長男・安次富金橋、次男・三津葉多武喜の王子達を排斥した。やはり護佐丸の血を引く長女で、阿麻和利の妻だった百度踏揚も首里城から外に出されている。その後、尚泰久は護佐丸とは無縁の第二夫人の息子で三男の尚徳を国王の座に据えている。しかし、わずか十二年後の一四七〇年代には、第二尚家の祖である尚円金丸によって、護佐丸は大忠臣としてよみがえっている。護佐丸の遺児の三男、盛親は第二尚家によって取り立てられ、以後も一族は、王府の重臣としての役職に就いている。護佐丸の遺児が取り立てられた理由としては、権謀術数タイプの尚円金丸が、護佐丸一族による敵討ちや反乱を恐れ、逆に臣下として取り込んだとの見方もあるとされている。護佐丸は、本人亡き後も政治的に大きな影響力を及ぼしていた人物だったことがうかがえる。
かたや謀反人、一方では大忠臣という、護佐丸に対する極端な評価は、何に起因しているのか?その背景には、いくつかの対立要因が浮かび上がってくる。それは、護佐丸の武将としての実績、類い希な築城家、家柄、南蛮貿易を開設する能力、座喜味から奄美に至るまでの北方諸島に対する大きな影響力、等によるものである。
一、護佐丸 対 尚泰久
尚泰久にとって護佐丸は、岳父でもあり、又、父・尚巴志とともに戦乱の琉球国を平定し初の統一王朝を創りあげた実力者でもあった。しかし、国の最高権力者である国王、尚泰久にとって、自分の国策を進める上で無視出来ない存在でもあった。また、護佐丸の背後には、元勲としての護佐丸を慕う、地方の按司達の不穏な動静も予測できた。尚泰久は、手法を間違うと、護佐丸を中心とした軍閥の台頭によって、王国の分裂を招きかねない危機感を感じていた。護佐丸の軍事力の前には、いまだ首里王府の文官達の力は脆弱なものであった。尚泰久にとって護佐丸は、圧迫感を与える存在として成長していたといえる。現代でいえば、創立者と共に会社を設立した大番頭に対する、二代目若社長の様な関係だったと推察できる。しかも、妻の父親にもあたるのである。国を運営する指導者、尚泰久、また行政府である首里王府にとって、
煩わしい存在となって、両者の間には亀裂が生じてくる。
一、護佐丸 対 尚円金丸
また、行政府の最高事務官である尚円金丸と、護佐丸の間にも対立要因があった。農民出身の金丸と、武家の名門とも言える山田按司の血を引く護佐丸との間にも、互いの疎外感が生じ、対立の要因となっていた。
首里王府は、自分の手を汚さずに阿麻和利を使い、突然、護佐丸制圧の官軍を派遣し滅ぼしてしまうのである。
「護佐丸・阿麻和利の乱」は、首里王府によって画策された事件と考えると、疑問点が氷解する。全て阿麻和利の謀略として、筋書きを作ることで、護佐丸は一時的に「王府に背いた逆臣」となる。しかし、謀略の責任を負わされた阿麻和利もまた王府軍によって滅ぼされると、王府は阿麻和利を「王府をたぶらかした逆臣」として位置づけるのである。その結果、時期をおいて護佐丸を「阿麻和利の謀略によって滅ぼされた大忠臣」としてよみがえらすことで、王府は事件の概略を、阿麻和利と護佐丸の私怨として片づけることができたとも考えられる。王府の企画の組踊「二童敵討」の上演によって事件の筋書きが固定化され、大衆に浸透していくのである。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2007年09月29日 18:00