2008年03月03日
中城城ものがたり その三
護佐丸が築城した中城城、座喜味城は共に世界遺産として登録されている。また、勝連城は琉球国でも初期のグスクと伝えられ、世界遺産となっている。
西端の読谷村残波岬から、東端の勝連半島のカンナ崎までの東西にのびる約二八キロのラインに、数多くのグスクが点在している。
この東西のラインは、琉球王国時代の軍事的緊張感のみなぎる地域と言える。現代で言えば朝鮮半島を北朝鮮と韓国を事実上区分する、いわば軍事境界線にあたる「北緯三八度線」と類似している。
また、このラインこそが琉球王国時代の、北山国と中山国の境界線で、一触即発の戦火の火種がくすぶっていた地域であった。また、このエリアを二分していた両巨頭が、西の護佐丸であり、東の阿麻和利であった。このエリアに点在しているグスクは、それぞれ両巨頭の勢力下に置かれていたと言える。
中山国の護佐丸側に属する、座喜味城、山田城、伊波城、屋良城、北谷城、知花城、越来城、中城城、かたや勝連王国の阿麻和利派は、勝連城、安慶名城、具志川城、江洲城、喜屋武城、西城(平安座島)、泊城(宮城島)、伊計城(伊計島)であった。
この二つの軍閥派の動きに、たえず神経を使っていたのが、首里城に君臨する尚泰久王とその参謀である尚円金丸の王府側であった。軍事力の劣る王府側にとって、護佐丸、阿麻和利の二大勢力は、喉に突き刺さった小骨のような存在であり、尚泰久の父、尚巴志は、護佐丸の娘を尚泰久の妻とし、尚泰久は娘・百度踏揚を阿麻和利の妻として送り込んだ。いわゆる政略結婚であり、閨閥で取り込む政策を実施したのである。
護佐丸と尚泰久王は、岳父と婿の関係、阿麻和利と尚泰久は、婿と岳父の関係、さらに護佐丸と阿麻和利は、外戚と孫娘の婿の関係という複雑な閨閥関係に置かれていた。
しかし、王府の思惑も、中城湾に出入りする大和商人との交易の利権争いで、阿麻和利と護佐丸間に生まれた利権争いを止めることは出来なかった。護佐丸、阿麻和利、尚泰久の関係は、それぞれの持つ要因で、三者間の亀裂は時間の経過と共に、埋めることのできないほどの溝となっていった。
七十代の護佐丸、三十代前半の阿麻和利、四十代半ばの尚泰久、三者の年代の差から生じる焦燥感。また、武将の名門の生まれである護佐丸と、一農民からのしあがり、権謀術数を駆使して領主の座を手に入れた阿麻和利、生まれながらに王子として誕生した尚泰久、それぞれの野望と権力欲は、相手を排除することによってしか達成されないことに気が付いた三人は、陰謀を図ることに情熱を傾注していった。
このような政治的背景をもとに、発生したのが「護佐丸阿麻和利の乱」であると言える。緊張関係に堪えられず最初に動いたのが阿麻和利と伝えられるが、巧妙に仕掛けられた王府の誘いに乗せられたと見る方が分かりやすい所がある。王府は、錦の御旗である「王府の紋・三つ巴」を阿麻和利に授け、護佐丸を急襲させて滅ぼすと、時を移さず阿麻和利もまた、滅ぼしてしまうことになる。
現在、座喜味城、中城城、勝連城は、世界遺産として存在している。しかし、その廃墟の背景には、城を築城した人物、城を運営した人物の戦国ドラマが眠っている。王府の正式の歴史書「中山世鑑」には、不思議なことに「護佐丸、阿麻和利の乱」に関する記録は見当たらない。私達は、世界遺産を見るときに、単なる建造物として見るのではなく、それを建築した人物、また、そこで生活をいとなんでいた人物達の生き様、背景を知る必要がある。それが、後世の人々に、世界遺産を理解してもらうことにつながる事になる。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2008年03月03日 16:31