2008年07月07日
首里城ものがたり その一
首里城は不思議な城である。その歴史は、十二世紀の琉球開闢の王・舜天の居城説、また十四世紀頃の察度王による浦添からの王都移転による築城説、さらには十五世紀の琉球国統一者・尚巴志による創建説等がある。
いずれにしても舜天、察度時代は山塞、もしくは砦のような小規模のもので、現在のような正殿を持つ規模に完成されたのは尚巴志の時代であると考えられる。
首里の丘の聖域性が城として取り組まれてから第二次大戦で消滅するまで、八百年近い歴史を有する城は全国規模においても貴重な存在である。日本史でいえば、鎌倉時代から続く歴史を持つ城である。
現在、世界遺産として登録されている首里城跡は、室町幕府の頃、第一尚王家時代に尚巴志によって建築された城構えであり、北京の紫禁城と建築様式が酷似している。そのため、建築当初から「小紫禁城」とも称されていた。
標高百二十〜百三十メートルの丘に築かれた首里城は、周囲一キロメートル、面積四万六千平方メートルの敷地を有する琉球第一の巨城であった。正殿の高さは十六メートル(五階建ての高さ)、基壇が一・九メートル、地上約十八メートルの高さの構造になる。正面からは、二階建ての作りになっているが、内部は木造三階建てになっており、幅二八メートル、奥行き二二メートルで、正殿の屋根には、六万枚の瓦と合計二五七本の柱によって支えられている。これだけの建築は、当時の琉球国の平屋ばかりの建築水準を遙かに越えたものであり、琉球がいかに国力を傾けて建造したかがうかがえる。
本土の城と比較して、首里城は城内に「首里森」「真玉森」の二つの神域、すなわち御嶽を有していることで、本土の城には見られない大きな特色を有している。
正殿の一、二階は玉座(王様の座る場所)で、二階は男子禁制のプライベートルームになっている。正面左の北殿は、公務や議事を行う役所で、中国の使者の接待場所としても利用された。正面右の南殿は、薩摩役人の接待の場所として、また、首里城に勤務する役人の控え場所や、行事の会場として使用されていた。
首里城内には、国王、王妃、王子だけのごく少数の王族と、二百名ほどの官女などが住んでいたといわれている。嫡子である王子も十三才を過ぎると、城下の中城御殿に住まわされ、国王の兄弟などや、家臣にあたる人々は、城下町から手弁当で首里城に通勤していたのである。
琉球王国は、一人の国王と、江戸幕府の大老に相当する摂政、または国相、老中にあたる三司官、大名に当たる親方、これらの重臣達と、部長クラスの奉行、地頭。課長クラスの地方役人、その他の役人で構成される官僚国家として運営されていたのである。
第一尚家尚巴志の一族は、七代にわたり六十四年間、第二尚家尚円金丸の一族は、十九代四百十年間、首里城を支配していた。第二尚家は、徳川幕府より百年も永い王朝を築いた。四百七十年余続いた首里王府は、明治時代の廃藩置県をもってその幕を閉じることとなる。
首里城には、根本的に本土の城作りと違うところがある。それは、米倉がないことである。敵に囲まれて篭城するための兵糧蔵がないとされている。その為か、石垣にしてももともと戦さを目的とした城がまえではなかったともいわれている。何を目的とした城かというと、中国からの使者をもてなしたり、神事、祭祀をするために作られた城ではなかったかと考えられる。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2008年07月07日 12:53