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2008年10月12日

首里城ものがたり その二

 現在の首里城の原型を作ったのは尚巴志である。尚巴志は、十五世紀初頭、北山国(今帰仁)、中山国(浦添)、南山国(糸満・高嶺)の三国に分裂していた琉球を武力制圧し、初の統一王朝を創建した英傑である。
 彼は、織田信長が天下布武を掲げて、日本国統一の覇業に取り組むより百五十年前に琉球統一を実践したことになる。
 佐敷の地で誕生した尚巴志は、強大な軍事力と財力を背景に、一四〇五年、中山王統制圧、一四一六年、今帰仁城攻略、一四二九年、南山攻略と次々に勝利を手中にしていった。

 尚巴志は、次の理由によって王国の象徴ともいうべき首里城を首里の岡に建造する。
一、 御嶽の存在
 首里の岡には、十名の神々をそれぞれまつる十の御嶽がある。戦国時代、琉球の按司(豪族)達は、地域の守護神であり祖神でもあるニライカナイをまつった御嶽を城内に取り込んで城を建造した。御嶽は、おおむね高地にあり、堅固さを要する城の立地条件を満たすことにもなる。しかし、真の目的は、領民の崇拝する御嶽を場内に確保することによって、御嶽に対する崇拝心と、按司自身に対する畏敬の念を重複させる効果を狙う戦略でもあった。琉球の城は、必ず城内に「イベ」と呼ばれる拝所・御嶽を有する。十名の神々が存在する首里の岡は、水平軸から渡来するニライカナイの神々と、国王即位の時にだけ垂直軸で降臨するキミテズリの神が交差する聖地といわれ、斎場御嶽よりも高位に位置する場所でもある。琉球の「グスク(城)」は、神を守る役割を負っているといえる。
一、 風水の法則
 尚巴志は、参謀役である中国人・懐機の提言によって風水の法則を首里城建造に取り入れた。首里城を背後から護る弁ケ岳(玄武)、城に向かって右に位置する金城川(青龍)、左から北山に向かう道(白虎)、城の前面にある龍潭池(朱雀)の風水の四神を配する場として首里の岡を選定し、尚巴志は懐機に築城を担当させた。懐機は龍潭池の水源を首里城内の名泉、瑞泉に求めた。池の水は人口が増える首里城下の人々の飲料水となり、火災のときの消防水としても使用された。さらに、あふれた池の水は排水溝を伝わり、首里坂下の田園地帯、真和志の農業用水に供与されたのである。龍潭池は、国王の戴冠式に訪れる、中国・国使冊封使をもてなす船遊びの場所として外交の役割を担う場でもあった。また、首里の岡からは、眼下に那覇の海がのぞめるが、風水の最大の条件である「背高面低」という法則も活かされているのである。
一、 国際貿易の拠点
 一三七二年、中山王察度は、中国と初の朝貢貿易を開設し、浦添を海外貿易の拠点としていた。牧港川の河口が交易船・進貢船の母港として使用されていたが、年々、土砂の堆積で川底が埋まり、尚巴志の治世の頃にはその用を果たさなくなっていた。また、一三九二年、察度の要請で中国から渡来し、久米三十六姓とよばれた琉中貿易の職能集団は、那覇久米村に本拠地を構えていた。彼らは、中国への国書の作成、通訳、冊封使の接遇、輸出入品の選定、進貢船の操船、造船、航海技術等を取り仕切り、その存在なくしては琉球の海外交易は成り立たないという役割を有していた。

 尚巴志は懐機を通じて久米三十六姓との関係を密にし、進貢貿易の独占を図っていった。首里城築城とともに、尚巴志は那覇港の浚渫などの整備事業を行い、浦添から那覇に貿易の主体を移していった。さらに、尚巴志は、港湾施設だけではなく、天使館、親見世(首里支庁)、天妃宮、迎恩亭、御物城等の外交施設も充実させ首里城からの貿易の直接支配を強化させていくのである。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。



投稿者 breakjp : 2008年10月12日 08:35