2009年01月01日
首里城ものがたり その三
首里城争奪の軌跡
首里城は、いくつかの戦いの場となるたびに琉球の歴史を大きく変えてきた。一三九二年頃、手狭になった浦添から王城を首里に移転した察度の時代は、首里城は要塞の役割を持つ館であったと考えられる。
一四〇五年、首里城が、初めて攻防の場として登場するのは尚巴志の中山攻略の時である。察度王統二代目の武寧は、冊封を受けて首里城に中山王として君臨していたが、尚巴志軍の急襲を受け、中山王の座を明け渡して滅んだのである。この首里城の落城をいとぐちとして、琉球史上初の統一王朝が尚巴志の手によって創設されることになる。第一尚王統五代国王、尚金福王の治世、一四五三年、志魯・布里の乱が首里城内で勃発する。尚金福王の世子・志魯と国王の弟・布里が王座争奪のために興した内乱である。首里城が炎上するという壮絶な戦いが繰り広げられたが、不思議なことに両者共に滅ぶという、勝者なき内乱であった。
その経緯、結果ともにいまだ解明されていない歴史上の謎とも言える戦いであったが、この内乱の蔭で、以後の琉球王国の国策を決定する二人の英傑が登場する。第一尚王統六代目国王尚泰久と、後に第二尚王統の開祖となる尚円金丸である。一四五四年、尚泰久は、越来按司として配されていたが、最後の王位継承者として首里の地に迎えられ国王の座を手に入れることとなる。金丸は、尚泰久の配下として能力を発揮し、二人は琉球王国の権力の中枢を占めることになるのである。
一四五八年、国王尚泰久と、参謀金丸は「護佐丸、阿麻和利の乱」を平定する。武断派の頭領として全琉に軍事的影響力を及ぼしていた護佐丸、また大和貿易を通じ新興勢力として台頭し首里王府の牙城をおびやかす若き野心家・阿麻和利、この二人を、綿密な戦略、戦術を駆使して取り除いた首里王府は、琉球戦国時代の幕引きを行ったのである。その後、尚泰久と金丸は善隣外交を基盤とした「万国津梁」の国策を打ち出し、琉球を海洋貿易国家に変貌させていくことになる。
一六〇九年、首里城を舞台にした琉球歴史上未曾有の戦いが発生する。「薩摩藩の琉球制圧」という、琉球王国がいまだかつて経験したことのない国難とも言うべき外圧であった。日本最強の軍団と言われる薩摩軍の攻撃で、わずか三日間で首里城は落城した。時の国王尚寧は、捕虜として駿府、江戸と引き回され、以降、明治初期まで薩摩支配による琉球国の変則な政治体制が生まれたのである。
関ヶ原の戦いのとき、豊臣方に組みした薩摩藩は、領土安泰は保証されたものの幕府の執拗な薩摩圧迫の策にあい、財政は破綻し、国力は衰えた。その解決策として琉球の中国貿易の利権に着目した薩摩藩は、琉球王国への進攻と、その支配を実践したのである。
一八七九年三月二十七日、本土の一八七一年施行より遅れること八年後、琉球にも廃藩置県が布かれ、琉球王国は実質上消滅し、沖縄県が誕生した。尚巴志の統一王朝創建より四五〇年後、独立国であった琉球王国は「首里城明け渡し」によって歴史の彼方に押しやられた。日中両国とのバランス外交で生き延びていた琉球国も、明治維新という日本国の大変革の波にのみこまれて、その存在理由を失うことになる。しかも、琉球処分官、松田道之は熊本鎮台四百名、東京より随行の警官百六十名を擁しての武力を背景にした処分を実施した。この実施は琉球国民を驚愕させ、以後の国民意識の変革を求める結果ともなった。首里城が歴史に登場するときは琉球の歴史が大変革するときでもある。琉球国内の内政に関する事件の際には、その衝撃は内部吸収できるが、外部要因でおこる事件の場合には国家体制そのものが琉球の枠を越えた意図で変化させられてしまうのが常である。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2009年01月01日 13:31