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2009年09月23日

首里城ものがたり その五

首里城ものがたり その五

首里城に君臨した名君 尚真王 - その二 -

 尚真は、母親「オギヤカ」の謀略によって十三才の若さで即位した。しかし、その後十年間は、国母オギヤカの専制政治が続くことになり、尚真が実質的に国政をみるようになるのは一四九四年、二〇代後半の時の円覚寺落成以降のこととなる。
 尚真の実績は、首里城欄干遺跡の中で輝かしく記録されているが、大きな謎がある。それは、琉球国初の歴史書「中山世鑑」に、第二尚王朝の中興の祖ともいえる尚真の功績に関してほとんど無視しているといってもよい内容になっている。

 歴史家・伊波普猶氏も、著書「琉球古今記」の中で「五十年間も王位にあって、近代琉球の基盤を築き、彼を謳歌した七種の金石文まで遺っているにもかかわらず琉球史きっての名君、尚真大王のことが琉球の正史ともあろう中山世鑑にわずかに数行しか書いてないのを私は物足りなく感じている。向象賢(羽地朝秀・中山世鑑作者)は、何故、この肝心なところを抜かしたのであろう」と述べている。
 「新講沖縄一千年史」の著者、新屋敷幸繁氏は、その理由として考えられることは「薩摩に遠慮する事があったのか」という疑問点をあげている。中山世鑑を著した羽地朝秀は、常に著作業務の背後に薩摩の琉球統治の考え方を意識していたと考えられる。
 薩摩の琉球統治政策は、大和文化を第一義にして、琉球文化を低く見る視点であった。
明治時代の琉球処分においても歴史は繰り返され、明治政府は皇民化政策の下に方言禁止令等を布いたりした。薩摩藩は、尚真の築いた文化の黄金時代を詳細に記す事で、琉球国民が誇りと自信を持つ事を避けたとも考えられる。
 尚真王の特筆すべき業績は、「祭政一致」の政策による中央集権国家の確立であろう。それ以前は、女性を生き神とする「ウナイ神」信仰と祖霊信仰を核とした自然崇拝が琉球の信仰の基盤となっていた。
 各村々には、神女(のろ)が存在し、各地の祀りを支配していた。また、神女は、その地の支配者である按司の守護神でもあり、実質的に地域の祭政に大きな影響を与えていた。
尚真は、辞令と俸禄を与えることで奄美諸島から与那国島、波照間島にいたるまでの琉球各地の神女を首里王府の組織の一員として取り込み、国家の統制の下に置いた。
 久高島においては、旧来の久高神女の単独支配に対応するべく、王府直任の外間神女を指名し、均衡を保つ方策を用いたりした。さらに、琉球全土の神女を組織統一する、神女の中の神女とも言うべき「聞得大君」の最高神職を設立し、その即位式場を斎場御嶽に指定した。
 尚真は、聞得大君を頂点とし、その下に三平等大アムシラレ、三十三君中央神女、さらに地方神女という神女制度を確立した。尚真は初代聞得大君に、自分の妹、音智殿茂金を任命した。これによって、各地の神女達は地域の祭祀を行うとともに、琉球国の長久繁栄、国王の健康長寿を祈る公事神女として位置付けられる事になる。
 各地の神女は、地域情報等を王府・聞得大君に提供するとともに、時には地方の取税、納付等も課されることになるのである。この制度の浸透によって、尚真は王国の政治と祀りに関するすべての権利を手中にすることとなる。本土では、すでに平安時代の頃には伊勢神宮と大和朝廷は祭政分離を実施しているが、琉球王国においては一八七九年の明治時代の琉球処分による王国の解体にいたるまでに十八代の聞得大君が存在したことになる。

亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。



投稿者 breakjp : 2009年09月23日 09:18