2010年01月27日
首里城ものがたり その六

文 亀島 靖[劇作家] 絵 宮城 厚
首里城に君臨した名君 尚真王 ー その三 ー
尚真王・治世二四年目にあたる一五〇〇年、三五才の壮年期を迎えた尚真は、大里按司を中山軍大将に任じ、さらに王府軍三千名を与えオヤケアカハチ討伐軍として八重山に派遣した。
征伐の理由は、勝者側の史書である「中山世譜(一七〇一年)」の記録によると、アカハチが三年にわたって貢納を怠ったためとされている。しかし、その実体は、琉球王国の中央集権推進策によって、行政機構と地方統治の強化を図る尚真の強力な戦略であった。
それまでの先島諸島の首里王府への貢納は、宮古島の仲宗根豊見親を通じて取りまとめられ実施されていた。ところが八重山諸島で急速に勢力を伸ばし始めたオヤケアカハチは、仲宗根豊見親に対する貢納を停止し、あまつさえ宮古島に対する進攻を図ったといわれる。
造船材料の木材等を資源豊富な西表島から調達し、八重山諸島をその支配下においていた仲宗根豊見親は、先島が戦乱の嵐に巻き込まれることを恐れ、尚真の中央集権国家への参画を図り、首里王府へアカハチの鎮圧を要請したのである。
なにしろこの時期、八重山諸島は群雄割拠の時代を迎え、仲宗根豊見親の手にあまる軍事情勢であった。最強兵力を擁する大浜のオヤケアカハチをはじめとして、石垣の長田大主の三兄弟、川平の仲間満慶山、平久保の加那按司、西表・祖納の慶来慶田城、波照間島の獅子嘉殿、与那国島のサンアイイソバ、鬼虎等の各勢力が台頭し、それぞれの旗幟もあいまいであった。
仲宗根豊見親の八重山派兵要請を受けた尚真は、派兵という軍事介入を通じて先島諸島を中央集権国家・琉球建設へ取り込むための絶好の機会ととらえたとも考えられる。
王府への恭順を鮮明にさせるとともに、王府に対する不満勢力を一掃することで王府百年の運営基盤が作れるのである。
貢納を拒否する事は、王国の財政基盤を揺るがす事につながる重大な反逆であり、さらなる第二、第三のアカハチの登場を許さないためにも八重山出兵は、尚真の中央集権国家維持への重大な試金石であった。
派兵の失敗が許されない尚真は、万全の策をたてて臨んだのである。一五〇〇年二月二日、大里按司他の九名の武将、軍船大小四十六隻、兵の数三千名、首里王府軍が動員できる最大規模の軍勢が、国王の命令で先島へ派遣された。
途中、久米島へ立ち寄った王府軍は、君南風神女を伴い一路南下し、仲宗根豊見親軍、多良間島の土原オゾロ軍と合流、二月十三日石垣島に到着、西表島の古見から長田大主も参加した連合軍は、十九日にアカハチ軍総攻撃の火蓋を切ったのである。
二十日、二隊に分けた軍船は、登野城と新川から上陸して戦闘が開始され、アカハチ軍も死力を尽くして反撃したが、多勢に無勢のアカハチは底原山で討ち死にし、反乱軍の一族郎党はここに全滅したのである。
尚真が、君南風を派遣したのも大きな理由があった。先島平定の後には、八重山の農耕、火食の神とされていたイリキヤアマリの信仰を廃して、君南風神女の指導による王府直轄の神女体制を築くためであった。
尚真は、戦功によって宮古の島頭となった仲宗根豊見親の妻と、古見の首里大屋子(石垣首里府)に就任した長田大主の妻、二人に先島での最初の大阿母(上級神女職)に任命した。アカハチの乱で知略をもって活躍した君南風神女の王府内での重要な役割を知らしめ、奄美諸島から先島にいたるまでの王国の祭政一致のシステムの中に、先島を位置付ける戦略でもあった。
亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。
投稿者 breakjp : 2010年01月27日 17:16