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2010年05月06日

首里城ものがたり その七

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首里城に君臨した名君・尚真王 その四

 尚真の治世は五十年に及ぶが、年譜としてみると次のような流れとなる。

*一四七七年(十三才)尚真王即位。首里城歓会門、久慶門創建。朝鮮の漂流民送還。
*一四七八年(十四才)刀狩り実施。シャムと交易(一四八〇年迄各年実施)。聞得大君制度確立。
*一四八一年(十七才)留学生五人(官生)を国子監へ派遣。
*一四九〇年(二六才)パタニ(タイ)国と初交易。
*一四九四年(三〇才)円覚寺落成。
*一四九六年(三二才)円覚寺巨鐘鋳造。
*一四九七年(三三才)円覚寺記碑建立。
*一四九八年(三四才)国王頌徳碑建立。
*一五〇〇年(三六才)八重山のアカハチを討つ。
*一五〇一年(三七才)玉陵築造、碑建立。
*一五〇二年(三八才)方冊藏経堂(後の弁財天堂)、天女橋架設。
*一五〇五年(四一才)殉死を禁止。国母・おぎやか没す。
*一五〇六年(四二才)久米島具志川按司を討伐。明国から一年一貢許可される。
*一五〇八年(四四才)正殿の龍柱建立。
*一五〇九年(四五才)百浦添欄干の碑建立。
*一五一一年(四七才)板敷橋(一日橋)を架設。
*一五一六年(五二才)三宅国秀琉球制圧を計る。ポルトガル人広東に来航。
*一五一九年(五五才)園比屋武御嶽石門、弁ヶ岳石門創建。
*一五二一年(五七才)種子島通交始める。
*一五二二年(五八才)与那国島の鬼虎征討。真珠湊碑建立。真玉橋(木橋)架橋。
 日秀上人来琉。
*一五二四年(六〇才)六色(紫、黄、赤、緑、青、黒)のハチマチ(冠)制度制定。
 島津忠治から尚真宛の書簡。明皇帝、尚真を通じ足利幕府に書を送る。
*一五二六年(六二才)各地の按司を首里に召集、定住さす。

 尚真は、三十代から四十代にかけて、精力的に国政に取り組んでいることが分かる。それまでは、母公おぎやかの権力下の政治が行われていたことが想像できる。
 尚真にとって幸いだったことは、母系社会の影響を受けた「おなり神」信仰による琉球の宗教体制を母・おぎやかが整備し、聞得大君制度を確立してくれたことであろう。
 妹が琉球初の聞得大君の神職についたことで、尚真は「神の世界」を手中にして容易に祭政一致を実施することが出来た。このことは、尚真にとって民心を掌握するとともに外交と内政に、より多くのエネルギーを傾注することを可能にしたのである。
 特筆すべき事は、円覚寺に対する比重が大きい事である。京都五山の流れを汲む大和の僧、芥隠を開山住持僧に迎え、他にも名僧六名、さらに三百名の僧侶を擁する琉球随一の巨刹であつた。尚真の目的は、単なる寺院の建築ではなかった。
 それは当時の寺院が持つ、学校としての役割を充実させることであった。首里王府の若い人材を育成するための機関として円覚寺を建立したともいえる。その結果は、琉球王国の外交力として結実してくる。尚真五十年の治世間、中国交易三十回、東南アジア交易、朝鮮交易等が二一回を数える。五十回以上の国際交易を通じ、国庫を支えた人材達は、円覚寺で学識を積み、国際情報を蓄えて育った琉球の若き官吏達であったと言える。
 尚真が育成したエリート達は、尚真の手となり頭脳となり、国内の平定、行政組織の確立、等に多大な実績をあげていくのである。


亀島 靖
1943年沖縄県那覇市生まれ。劇作家、プロデューサー。
主な著書に、「琉球歴史の謎とロマン1〜3」、琉球新報 新聞小説「三十六の鷹」、沖縄県広報誌「琉球歴史人物伝」、沖縄テレビ「沖縄の昔ばなし」原作、琉球放送「源為朝伝説を追え」脚本、CD「耳で聞く琉球歴史の謎とロマン」など。


投稿者 breakjp : 2010年05月06日 13:43